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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

天才秋元塾 君もなれるゾ!おニャン子成金

2009年08月28日 | 80年代文化論(音楽)
ぼくは、この80年代文化論ノートを、ぼくと同年代あるいはそれより上の読み手のためというよりも、ぼくよりも若く、80年代を体感していない読み手のために書いている。後期の講義の準備だからということはもちろんそうなのだけれど、自分たちが生きてきて、あまりに当たり前になっていることが実はある時期の価値観によって規定されたものであることに気づいてほしい、自分でも気づいておきたいと思っている。発見し、考えてみて欲しいのだ。例えば、前の記事の『天国のキッス』や『セカンドラブ』は、時代を超えた名曲だと思う。こうしたものがかつてあって、そして今日があるはず。名曲の一部は忘れられているけれど、でも一部は日本人の生活の中に沈殿していて、ぼくたちの情緒を形作っている。未来に優れた仕事が生まれるとしたら、こうした作品から人間の秘密を取り出して今日的に機能させることによって可能なのではないか、などと思うことがある。ぼくたちは、そうした可能性の一部にしか目がいっていないのではないか。批評の仕事というものが今日あるとすれば、そうした発見の手助けをすることこそすべき仕事なのではないか。なんて、ちょっと思っております。(ただしこれは、ノートに過ぎません、そんなたいそうなこと思いつつ資料をあさって四苦八苦、奮闘中というのがこのノートの現状です、悪しからず)

さてさて、80年代前半は、松田聖子(と中森明菜)の時代だとして、後半は、小泉今日子、おニャン子クラブ、そして森高千里の時代だったのではないかと推測してみます。特徴を整理すると、

小泉今日子      自己言及的アイドル
おニャン子クラブ   素人アイドル 
森高千里       自作自演アイドル フィギュア的アイドル

森高千里は、ちょっと置いておくとして、小泉とおニャン子の代表曲は、ともに秋元康によって作詞されています。
秋元康は、すでに書いたように、新人類のひとりです。『新人類図鑑Part2』に登場しています。この新人類・秋元によって80年代後半のアイドル像は規定されたと考えてみることは出来るかも知れません。その一例として、あらためて『なんてったってアイドル』と『セーラー服を脱がさないで』を考えてみましょう。

その際に、参考資料にするのが『天才秋元塾 君もなれるゾ!おニャン子成金』(扶桑社 1986)。
このタイトルにすべてが凝縮されているような気がします。作詞入門といった体裁の本で、本と言うよりも、100ページのほどの2/3は購入者が自分で作詞するためのノートになっています。左にはおニャン子ひとりひとりが自分の書いて欲しい詩のテーマなどをあげていて、それに合わせて作詞する。500円とはいえ、そりゃないんじゃないかなー、と思ってしまうのだけれど、作詞をしたらここに遅れと、テレビ局、レコード会社、出版社などの住所・電話番号が、担当者のフルネーム付きで掲載してある。曰く、「秋元コネクション」。なんとなく、作詞入門と言うよりも、作詞家入門という感じ。

「作詞家というのは一言でいえば"職人"なんだよね。たとえば寿司屋を例にとると、普通の寿司職人はトロとかギョクとか、いわゆるシンプルな昔ながらの寿司を握って、その味で勝負するでしょ。これが本当のプロの作詞家。だけど僕の場合はちょっと違うんだよね。カリフォルニア巻を作ってみたり、アボガドをネタにしてみたりするわけ。そのあたりが、作詞家の中でも、"キワモノ"といわれる由縁なのかもしれないけどね。だから当然、これから話すことは普通の作詞家と違っていると思う。これはあくまでも"僕なりの作詞論"だから。ただひとつだけ確かなのは、原稿用紙に金は埋まっているということです。と、一応最初においしいことをふっときます。」(本書はページ表記がない)

これは、「HOW TO 作詞!」という章の冒頭文。普通の職人ではない、キワモノの作詞家の作詞論だとまず断っているのが興味深い。どんな意味で彼が「キワモノ」でありかつそうした類の「職人」であるのか。その後5ページに渡って、HOW TOが書かれてある。小見出しを列挙すると。

1"秋元流コンセプト&絵の見える詞"がヒットの秘訣だ!
2生活密着派or虚実空想派キミはどちらのタイプ?
3詞のなかにいろいろな仕掛けを作ってみよう!
4それでは実際にプロの作詞家を目指すにはどうしたらいいのか!?
5これまでに数限りなく使われている"常套句"は絶対に避けろ!
6歌謡曲の歌集にはヒントがいっぱい詰まっている!
7一番良い勉強法はすでにある歌の替え歌を作ってみることだ!
8プロを目指すか、アマチュアのままで終わるか、決断の時がきた!

興味深いのは、曲がどのようにテレビやラジオというメディアで取り上げられて、どのようなリアクションを生んでいくのかを予測しながら言葉を選んでいると述べているところ。

「僕がずっと職業としている放送作家というのは、何かがヒットするとそれをテレビではどういうふうに紹介しようかとか、ラジオではどうやって受けとめようかとか、そういうことをすぐ考える仕事なんです。作詞をする時には、これを逆に(業界の人がよくいう)利用してしまう。つまり、自分が作った詞が世間(マスコミ)をどういう形で巻き込んでいけるかを考えるわけです。」「おいしいエサをうまくまかなければいけないと思います。小泉今日子が「なんてったってアイドル」を歌えば"アイドル論"が華やかになるだろうし、おニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」をだせばセーラー服をベースに色々な仕掛けが広がるだろうしね……要するに、核になるべき何かを与えることによってヒットの可能性を受ける側(テレビ局、ラジオ局、出版社などのマスコミの人)に見いださせるというね。業界では、これを「狙ってる」と言うんですけれども……。」

その後、「天才・秋元康の自作自評・自画自賛」という章に。そこでまず『なんてったってアイドル』についてこう述べている。

「僕らは先まわりがうけた世代だと思います。」ウンコもらした子が翌日「学校に行って自分から「昨日、ウンコしてしまった○○です」と言っちゃったほうが楽だ、みたいなところがあると思うんですよ」という前振りがあった後で、

「こうしたことを小泉今日子の歌にあてはめてみたのね。彼女を見れば、誰だって「アイツはアイドルしてる」と思っているわけだから、それを逆に「私はアイドルよ、なんてったってアイドルよ」と本人に言わせてしまう。それと、彼女だったら男もいるんだろうなとか、きっとミュージシャンとできちゃうんだろうなと聴く人の勘ぐりを彼女自身が先に言っちゃう。これが"快感"になっているわけ。それに「インタビューならマネージャーを通して」なんて遊び感覚がよかったんじゃないかなと思います」

もうこれは、すごいですね。「新人類とは何か」の定義そのものに見えます。要するに「自称」こそが人間をその存在にさせる、というわけです。「なんてったって」って誰が何と言おうとということですよね。誰が何と言おうと私はアイドルなんです、と歌うのが今日的アイドルなのだというんですね。小泉今日子という歌手は、松田聖子的でもあり、でも、松田聖子にはなれず、かといって中森明菜とはもっと違うし、と自分の位置づけに悩んだひとではないでしようか、とくに85年以前には。『私の16才』『真っ赤な女の子』『渚のはいから人魚』など、自分を定義するようなタイトルが多い歌手というのもこの点で気になるところです。定義しないとぼんやりしてしまうなんてことが考えられていたのか、、、なんて推測したくなります。そこでまさに最強の定義があらわれる(松田聖子のいない間に)。『なんてったってアイドル』と。
秋元康はまさにこの「自称」の身振りとして「天才秋元塾」なんて言っているわけです。この自称の情けなさとけれども、これが自分の世代らしい表現なのだという居直りと確信が、自称に力を与えてくる。「言ったもん勝ち」というやつで、これはまさに、大塚英志が『おたくの精神史』で述べている「先着順」を連想させる。『神々』(作詞家ならば、例えば松本隆になど)以外は、天才ではない故に、ここにいる非天才を天才と非天才とに分けるのは、早いもの順、言った者勝ちなのだ。ヒットさせてしまえば、それでよし。
あと、こんな風にも考えられないか。天才が不在の時代に、天才が天才であるのは、詞の才能以上に業界における人脈など業界力に委ねられるようになる。ある意味では、ポストモダンそのものの思考である。天才などというのは、近代の産物である。と考えるならば、その天才など存在しない時代に、それでも自分が天才であるとすれば、それは業界で力を発揮できることがその証になるというわけだ。秋元の心はだから、自分の歌を聴く聞き手よりも歌をビジネスへと変換するマスコミに向かっている。80年代の初頭の『宝島』では、「産業ロック」是非論なんてのが話題になっていた。そうした産業と音楽との関係の是非が問題にならなくなるのが85年以降の展開であり、歌の形式よりも、歌をめぐるシステムこそが歌を作りその価値を決めるという状況が進んでいく。

小泉についての新人類・野々村のコメントは以下の通り。

「KYON2のクセは、欲望のままに、だらしなく挑発すること。
暗に何度も強調してきたように、彼女はなーんにも考えていない。「なーんにも考えていない」にも関わらず、僕らを驚かせてくれるその並はずれた才能。
 ひとつ付記しておこう。KYON2の無意識が、戸川純の無意識を気取る自意識とはまったく違うものであることを。無意識の無意識と、無意識を気取る自意識。」(pp. 64-65)

「スターシステムというゲームの規範にノリつつも、たえずはずしをかけていくKYON2の必殺ワザ」「小泉今日子の身のこなしの軽さと不確定性は、スター・システムのルールを無視した小田急沿線(ルビ:ノマドロジック)の相模原台地的で自由な運動性によってもたらされていたのだ。」(p. 69)

あと、「ヤマトナデシコ七変化」に出てくる「素顔のほうがウソつきね」のフレーズに、野々村は注目している。本名を芸名にする小泉今日子。「素顔を見せない女のコの周囲で複数の人格が輪舞するゲームが生まれた。」(p. 63)と述べている。


小泉今日子『ヤマトナデシコ七変化』(1984.9.21)
作詞康珍化 作曲筒美京平
純情・愛情・過剰に異常
純情・愛情・過剰に異常
ヤマトナデシコ七変化 素顔の方がウソつきね
ヤマトナデシコ七変化 絵になるネきわめつけ
純情・愛情・過剰に異常 どっちもこっちも輝け乙女

しとやかなふりしていても
乱れ飛ぶ恋心A ha
内緒あなたの腕の中
ごめんだれかと比べちゃう
ヤマトナデシコ七変化
からくりの早変わり
純情・愛情・過剰に異常
あっちもこっちも恋せよ乙女


この曲で恋する「乙女」は、したたかで浮気者(小泉の曲に「浮気」の語は頻出する)で、「乱れ飛ぶ恋心」は、男性たちをあちこち遍歴しながら、自分のアイデンティティを「からくりの早変わり」よろしく、変化させてゆく。「しとやかなふり」は、それが出来る(演技の成功 聖子)/出来ない(演技の不能 明菜)ではなく、その最中も「恋心」はあちこちに乱れていて、一定しない(「過剰に異常」)。複数のアイデンティティの着せ替え、キャラの発生。

*「艶姿ナミダ娘」(1984) キャラ設定としての「艶姿ナミダ娘 いろっぽいね」


聖子的ぶりっこと明菜的せつなさ

2009年08月28日 | 80年代文化論(音楽)
あらためて80年代前半の代表的存在、松田聖子と中森明菜を取り上げて比べてみようと思う。
松田は、ぶりっこと称される存在。ぶりっことは、自然(ウブ)を演じること、演じる人のことで、表面的にはかわいくウブに見える一方で、その裏面にはそれが演じられたものであることが指摘される存在。当時、よく囃されたのは、授賞式でのこうしたシーンで、真偽はどうあれ、しばしば「嘘泣き聖子」と言われていた。
対して、中森は、「不器用さ」を歌う。本人もそうしたタイプだったらしく「中森明菜は、コンサートでファンに呼びかけるときですら、不器用だった。まるで、ファストフード店の新入り店員が、いかにも「マニュアルどおりです」と言わんばかりに、一生懸命に笑顔は作るが、まるで心をこめずに対応するのを見ているかのようだった。その健気さに、同年代の少年少女たちは共感を覚えたのだろう。」(中川右介『松田聖子と中森明菜』pp. 215-216)と論じられている。不器用さは、演技の不器用さにも繋がる。そこには苛立ちがあり、分かって欲しい自分の本当の姿とそれが分かってもらえず誤解されてしまう虚像の姿の二つに悩まされる。そんな実存が浮かび上がってくる。

他者に理解されない素の自分らしさ----他者に愛され(ようとし)ている演技上の自分
   (明菜的)                  (聖子的)

今日の自己評価に関して、「エゴ」を重視するあり方と「モテ」を重視するあり方があると、しばしばぼくは、大学生に向けて女性ファッション誌を事例にし話をしている。「エゴ」を重視するあり方の代表例がコギャル時代の『egg』で、当時この雑誌が掲げていたのは「スーパーエゴシステム」(フロイトは関係なし)だった。自己中で、自分がよければいいので他人の評価は気にしないというあり方。「モテ」は、三年程前の『CanCam』が代表で、自己評価よりも他人からの評価の方が重要、自己満足よりも他人からモテ、愛され、ゴールとして設定した結婚への最短・最良コースを目指す。21世紀の前半に際立っていたこの二つのあり方は、20年遡って80年代をふり返ると、明菜的ものと聖子的なものの違いと類似性があるように見える。

とはいえ、中森の歌う女性は自己中というのとは違う。分かって欲しいが分かってもらえない、そこに戸惑いと苛立ちと絶望があり、そしてその負のエネルギーが歌の力になっている。

さて、聖子的ぶりっこと明菜的せつなさをより具体的に分析するために『天国のキッス』と『セカンドラブ』を比較してみようと思う。松田から二年遅れの中森は、82年の5月に『スローモーション』でデビュー、同年11月に発売された『セカンドラブ』は、『少女A』に続く第3弾シングル。中森初のオリコン一位曲となる。その半年後に『天国のキッス』はリリースされる。この曲について、2009年8月放送『The Songwriters』で松本隆は、松田聖子プロジェクト最良の曲と発言している。

『天国のキッス』作詞松本隆 作曲細野晴臣 1983.4.27

Kiss in blue heaven もっと遠くに
Kiss in blue heaven
連れて行って ねえ Darlin’

ビーズの波を空に飛ばして
泳げないふりわざとしたのよ
ちょっとからかうはずだったのに
抱きしめられて気が遠くなる
kiss in blue heaven 雲の帆船
kiss in blue heaven
乗せて行って ねえDarlin’

おしえてここはどこ?
わたし生きてるの?
天国に手が届きそうな
青い椰子の島
……
愛してるって言わせたいから
瞳をじっと見つめたりして
誘惑される ポーズの裏で
誘惑してる ちょっと悪い子
……

まず注目したいのは、「天国に手が届きそうな」の表現に端的なように、松田が歌い続けてきたデートソングにおいて、描かれうる最高の状態、ひとつのクライマックスが描かれているということ。メイクラブ。その手前を描く、女と男の距離が次第に縮まったり離れたりするその距離を描くことが恋愛ソングであり、デートソングだとすれば、これはあってなきがごとし領域のはず。ここに触れてしまえばもう書くことがなくなる。目的であり終焉、ジ・エンド。
だからこそ、告白してしまうのか、「泳げないふりわざとしたのよ ちょっとからかうはずだったのに 抱きしめられて気が遠くなる」。目的成就のための演技(「ふり」→ぶりっこ)は、実際に成就される瞬間には、意図(「ちょっとからかうはず」)せざる出来事へと演技者を導きもする。すなわち「抱きしめられて気が遠くなる」。この「気が遠くなる」こと、エクスタシーは、生きていることが最も燃え上がる瞬間であると同時に、生きていることを越えてしまう気にさせる出来事でもある。「おしえてここはどこ?わたし生きてるの?」。以前も書いたけれども、松本隆の書くデートソングは、ある一日の幸福を通り抜けて生きているということそのものへと迫って行く。この次元があることで松田聖子を安易に語ることはきわめて難しくなる。まあ、そうなのだけれど、でも、デートというゲームが生きていることを燃え上がらせる最も生き生きとした場なのだと、とりあえず理解してしまおう。この曲では、もう一度、松田=松本は、松田的ぶりっこの手の内を明かしてくれる。「愛してるって言わせたいから 瞳をじっと見つめたりして 誘惑される ポーズの裏で 誘惑してる ちょっと悪い子」。誘惑されることが誘惑することであること、このゲームこそぶりっこという演技の内実だ。受け身の瞬間が訪れるために凝らす能動的なしかし巧妙に隠された(ときにあえてあからさまにさえする)技巧。ゲームの勝者を目指す「ちょっと悪い子」。「悪い子」の悪さは、二重性を巧みに生きていること、嘘をついている(ふりをしている)こと、にある。だけれども、すべては自分と相手とが「気が遠くなる」ための「悪」であり、望まれる「悪」(嘘)なのだ。


『セカンドラブ』作詞来生えつこ 作曲来生たかお 1982.11.10発売
恋も二度目なら 少しは上手に
愛のメッセージ伝えたい
あなたのセーター袖口つまんで
うつむくだけなんて
帰りたくない そばにいたいの
そのひとことが言えない
抱き上げて つれてって 時間ごと
どこかへ運んでほしい
せつなさのスピードは高まって
とまどうばかりの私

恋も二度目なら 少しは器用に
甘いささやきに 応えたい
前髪を少し 直す振りをしてうつむくだけなんて
舗道にのびた あなたの影を
動かぬように止めたい
抱き上げて時間ごとからだごと
私をさらってほしい
せつなさがクロスするさよならに
追いかけられるのイヤよ

抱き上げて つれてって 時間ごと
どこかへ運んでほしい
せつなさはモノローグ胸の中
とまどうばかりの私

明菜の歌う主人公は、聖子の望ましい「悪」である嘘がつけない、演技が出来ない。会話というゲームの上手なプレイヤーになれたらもう少し自分の望みがかなうだろう(「愛のメッセージ伝えたい」という気持ちがかなうだろう)に、それが出来ない。「恋も二度目なら 少しは器用に 甘いささやきに 応えたい」。いや、振りはするのだ、するのだけれど不器用すぎてゲームにならない、恋愛に展開していかない。「前髪を少し 直す振りをしてうつむくだけなんて」。きっと主人公は、隣を歩く男から何かを言われたのじゃないか、それに応えて、誘われているように誘う表情を男に向けてみせられればどんなにかいいことか。なのに「うつむくだけなんて」。理想の状態と現実の状態、そのギャップが「せつな」い。本当は、聖子的ぶりっことさほど変わらない欲望を、明菜の主人公も抱えているのだ。「抱き上げて連れてって時間ごと」。「天国」でなくてもいい「どこかへ運んでほしい」。けれども、この主人公の思いは、発話されぬまま「モノローグ」が「胸の中」に留まる。