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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

雑文

2005年12月07日 | Weblog
いま思いついたことを、つらつらと。

(1)
ダンスを見るということは、ダンスする身体を見ながら、そのダンサーの自意識を読みとることなのではないか。つまり見えている動きを通して見えていないものへ反省を向けること、ぼくたちがダンスを見るときしていることの内実はこれではないか。

ただきれいな運動とか規則をはみ出す動きが見たいだけならば、CGで構わない。i tunesのビジュアライザを眺めていればそれで十分楽しい、ということになるだろう。でも、動きのうちに「硬さ」とか「柔軟さ」とかを読み込んでしまう場合、見る者はそこに硬さ/柔軟さを生む動き手の意識を意識してしまう。あるいは、意識せずに踊り手の動きを見ている時は、この踊り手への意識を反省する作用がマヒするくらい(意識を意識しないくらい)踊り手の意識が気配りされているのではないだろうか。うっとりする、というのは、そういったマヒの状態の意識をともなうものだろう。

動きがこういった動き手(踊り手)の意識を意識させること、その点を省みることなしには、例えば、大野一雄の踊り子になる踊りは説明できないだろう。彼の手はただ震えている、いやただ震えていることが見る者のこころに響くのではない。その「震え」が観客の目に、大野がなろうとする対象と大野自身との距離(ずれ)を感じさせ、そのことがこころに響くのだ。

こうした踊り手の意識を感受するプロセスとしてダンスを見る、という行為を説明すること。そのことは、ダンスが他ならず社交であることを確認することである。身体を媒介とする意識と意識のコンタクト。多分、この点をもってダンスは演劇と区別されるべきだろう、あるいはいわゆるパフォーマンス・アートと。

* でも、CGをダンス的に見る、ということはありうるわけで、最近学生から借りたファイナル・ファンタジーの映画版で、やたらと目に付いた髪の揺れは、ぼくの目にはわざとらしく映った。このわざとらしさは、その髪がただCG的の技術的限界としてよりも、むしろ「風に揺れる髪」を通してことさら映像をリアルに自然らしく(現実らしく)見せようとする「魂胆」の反映と感じさせた故に、そうぼくの目に映ったわけだ、きっと。

(2)
ダンスが意識の問題と深く関わっていると思うもう一つの点について。例えば、ストリッパーは何故踊る必要があるのか、ということを考えてみる。ストリップ小屋において観客の欲望はダンスにはないはずだ、端的に言って踊り子のからだ、に相違ない。よいダンスを見たいなんてもしそう言う客がいるとしたら「口実」に過ぎないだろうとぼくたちは思うだろう。けれども、その苦し紛れの「口実」こそがまさにストリップにおけるダンスの役割なのではないか。

欲望の中心にある女のハダカはそれがそのまま露出されてしまうと「困る」。そこでは、自分の欲望と鏡像的関係に入ることになる、そうなると実は客は女のハダカだけではなくそれを見たいという自分の欲望そのものに直面しなければならなくなる。マン・ツー・マンならともかく少なくとも、周りに他の客達がいる前では、自分の欲望をそのまま顔に描くことは、つらい。

その「直面」状況を上手くかわしてくれる口実に、ダンスがあるのではないか。だから、ハダカが仮に見えにくくなったとしても、ストリッパーには踊っていて欲しいのではないか、客は。欲望を成就することと自分の欲望を反省してしまう自意識から逃れることとをダンスは二つ叶えてくれる。(ちなみに、ぼくは一度しかストリップ小屋に行ったことがない。だから、そのときのことを思い返しながら書いてみた。そのときには、二時間分のワンステージでへとへとになってしまった。なににへとへとになったのかは謎である。)

とすれば、ダンスは客の意識をコントロールすることでもあるのだろう。客の意識の前で踊る、ということがどれだけ意識できているのかが故にダンサーに求められている、そう言い換えることが出来るだろう。

もちろん、ストリップ小屋では、観客をシンプルに喜ばすことが目指されるだろうが、コンテンポラリー・ダンスがそれをする必要は必ずしもない。むしろ、そういった状況を逆撫でしたっていいし、この構造を意識しつつ「ポン!」と投げ捨ててしまうことも、「あり」だろう。すなわち、この関係性に対して批評的に迫ることが、コンテンポラリーダンスのトライアルの場所、と言えるかも知れない。

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