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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

あいちトリエンナーレ2010

2010年08月26日 | Weblog
「賭博では無用の利益を得ることがある。それはあぶく銭といわれる。儲けがあぶく銭であるかどうかの境界を見定めるのは非常に難しい。それは根源的には、はずみとしかいいようのない贈与であること、自然からの贈与である部分が入っているからだ。近代資本主義の所有の概念は、ロック以降、自分の能動的な努力において獲得されるものを、正当な所有物として捉えてきた。しかし、どう考えたところで、そうした能動的な努力をなすより以前に、われわれには身体が与えられ、身体的な力能が与えられている。能力自身がそもそもあぶく銭ではないのか。あぶく銭を前提にしないと、正しく稼ぐことはできない。あぶく銭は労働の前提ではないのか。」(檜垣立哉『賭博/偶然の哲学』p. 151)

行きの新幹線で読書。はずみとしかいいようのない贈与としての各人の能力。それは労働の前提である。この労働(work)を芸術作品(art work)と言い換えてみてもいいかもしれない。作品はすべて能力の反映である。能力、ぼくだったら性能(performance)とかスペックとかいうかもしれないこれを、作品は映している。あいちトリエンナーレでぼくが考えていたのは、そのことだった。

山本高之の作品は、こどもに地獄をクラフトさせるといったものと、動物園の動物のために「一週間の歌」を替え歌したものをその動物の前で子供たちに合唱させるものの二点、長者町のエリアで展示されていた。こどもの性能の観察。

島袋道浩は、篠島の漁師たちに魚をさばいてもらう映像など。島民の性能。

平田オリザは、ロボットに演劇をさせる。ロボットの性能。

ぼくたちは必ずしも素晴らしい能力ばかりを見たいのではない。誰もが北島康介になれるわけじゃないし、なれたらいいのかもよく分からない。なったときの感触とか知りたいけど、「ああこうなんだ」という確認作業は、感動の大きさは多少異なっても、その他のどんな能力になる場合にだってできること。スーパーアスリートの能力は、人間の能力のレンジのあるエッジに触れているように思われる。けれども、エッジはきっといろいろなところに、各人の能力の内にそれそぞれあるはずだ。それぞれの能力はたまたまの「あぶく銭」で授かったものかもしれない、けれど、だからこそ各人の身体は魅力的なはずだと思う。各人の身体は、すべて、人間というもののエッジを示している。
ぼくたちはどんな身体にも興味がある。人間じゃない身体にも興味がある。アーティストの身体の反映(としての芸術作品)にばかり興味があるわけではない。むしろアーティストは、性能実験の運営者であればいいのかもしれない。運営者としての力量が問われる存在であればいいのかもしれない。

なんてこと、一昨日、昨日とあいちトリエンナーレ2010で名古屋市街をうろうろしながら思っていた。

学生たち15人を引率してだから、ときどき、作品よりもそれを見ている学生たちのことについて考えたりしていた(1/3くらいは、いい主婦、お母さんになるだろうなと思わせるおっとりでだからあんまりアートに反応しない女の子たち、彼女たちが専業主婦に収まる社会的環境は日本の未来に残されているのか?と、ちょっと心配になったりなど、余計なこと考えながら、うろうろしてました)。半分以上が「現代美術」初心者。だからこそ、反応が面白い。
ピップ&ポップがだんとつ一番人気だった。これだけたくさん見ていると「床に粉をまく」という方法にあちこちで出くわす。すると、その方法のコンペみたいのが見る者のなかで勝手にはじまったりするけど、「床に粉をまく」アワードの一位だろうな~。ジェラティンもよかったけど、学生たちは「???」ってなってた。

忙しくて、一週間近く妻子と別居状態。Iはぼくのこと忘れていないだろうか、、、

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