手技療法の寺子屋

手技療法の体系化を夢みる、くつぬぎ手技治療院院長のブログ

自分の気持ちを観察する練習

2014-05-01 22:49:55 | 学生さん・研修中の方のために
手技療法の臨床ではもっとも相談の多い「痛み」。

それも慢性痛になると、感情やものごとの受け止め方が大きな影響を及ぼすので、患者さんの気持ちをよく理解することが大切。

そう言われているので、セラピストの中にはカウンセリングをはじめとした心理学などを勉強する方もいます。

私もそうでした。



このようにして知識やスキルを学ぶのも有効ですが、加えてやっておくとよいことがあると思います。

それは、自分の気持ちをよく観察し、自覚できるようになっておくということです。



「それってふつうのことじゃないの」と感じられた方もいるでしょう。

私たちは、何となく自分の気持ちを理解しているつもりです。



でもここでお伝えしたいのは、そんな漠然としたものではなく、その瞬間瞬間の感情がどうなっているのか。

ものごとをどのように認識し、解釈しているのかという思考のプロセスを、できるだけ鋭く観察して理解しておくということです。



自分の気持ちを自覚できなくても、いろいろ勉強しているうちに、相手の気持ちをある程度予想することはできるかもしれません。

でも共感することは難しいでしょう。

自分が体験したことをしっかり味わって理解しているからこそ、相手に共感することが出来るはず。

知的に理解することと、感覚的に理解することの違いですね。



人と人との交流である臨床では、相手に共感できるということはとても大切です。

慢性痛のコントロールの場合、共感によって患者さんの治療参加がより積極的に促されることがありますから。



また、自分の気持ちに気づくことができると、自分を客観的に見られるようになります。

すると、感情の波にのみこまれにくくなり、気持ちをコントロールしやすくなります。

これがセラピスト自身を守ることにもなります。



自分の状態を理解できないまま相手に一生懸命になっていると、気づかないうちに心身が消耗して、身動きが取れなくなってしまうこともあります。

熱心さはよいのですが、これは美談にはなりません。

私たちだって元気に生活して自分の人生を生き、幸せになりたいわけですから。



かといって、機械のようにドライに割り切る冷血人間になるというのも考えもの。

人が人を診るからこそ存在する意味や価値というものがあります。



また、患者さんはセラピストにいろいろな接し方をしてきますから、時に私たち自身が怒りや不満、不快感などネガティブな感情を持ってしまうこともあるでしょう。

でもそれに飲み込まれて、こちらも興奮していたら仕事になりません。



反対に無理に気持ちを押さえつけていても、自分の身が持たなくなるでしょう。

私たちもふつうの人間なので、時と場合によって怒りや不安などが生まれるのは仕方のないこと。

しかし、それに早く気づいて自分自身に上手く対処できれば、火に油を注ぐようなことが避けられます。



熱心さで自分が消耗することなく、人間味が感じられない医療人にならず、自分の感情に振り回されないためにも、心をある程度コントロールできる術を身につけておくというのは大切ではないか。

そのための第一歩として、自分の気持ちの変化に敏感に気づけるようになっておく必要があると思っています。



練習のコツは、出てきた感情や考えに対し、ただ観察するだけで良い悪いの判断は行わず、確認だけしたら、そのままスルーしてやり過ごすということ。

感情や考えを否定的に捉えて、押さえつけようとするのでも、無反応になるのではありません。

ただ生まれた感情を気づいて見つめ、どのように変化して収まっていくのかを観察するだけです。



よく聞く「気づきを得ました」という言葉は、誰かの言葉や行動から得るものがあった、という意味で用いられることが多いでしょう。

でもこの場合は、自分の感情や考え方そのものに気づいておく、その変化を自覚しておくということです(これをメタ認知ともいいます)。

自分の心を教材にして、直接学ぶわけですね。



ただ、日常生活を行いながらそれを行うのはとても難しいことです。

だから出来ることから始めるとよいでしょう。

一人で歩いているときなどは、行いやすいかもしれません。

街の景色や道行く人の様子を見たり、音を聞いたり、においを嗅いだりすることからいろいろなことを感じているはずです。

「あの人きれいだな」とか
「ジャマな歩き方をしているな」とか
「いいにおいがしてくるな」とか
「工事の音がうるさいな」とか



このようなことは、普段ならはっきり自覚しないでやり過ごしているのではないでしょうか。

それをどのように感じ、どのような感情が生まれ、どのように考えたかを気づいて自覚し、やり過ごすようにします。

「他人からされたこと」を関心の対象にするのではなく、対象を「自分がどのように反応したか」に持っていくといってもよいかもしれません。

このようなことからでも、少しずつ気づいて観察する力は養われていきます。



できるようになるに従って、いろいろな状況で気づけるよう観察の範囲を広げていってみましょう。

次第に観察する力が鍛えられ、ある程度のことなら、はっきりした感情にも我を失うことなく、気づいて冷静に見つめられるようになっていきます。



何だか立派なことをお話しましたが、今回はちょっと後ろめたい気持ちで書いたところもあります。

というのも、私自身が自分の心をきちんとコントロールできているわけではないからです。

まだまだ修行の途中。

ただ、この方法は役に立つと思ったので未熟さを省みず、あえてご紹介しました。



私の場合、自分の身体の動きを日常で観察する中で、次第に観察の対象が心に移っていったのですが、これは昔からある仏教の修行法だと後に知りました。

それは瞑想法のひとつで、はじめに身体の動きを観察から始まって、次に感覚、心、そして心の法則のようなものに対象を移していくというもの。

私も大きな影響を受けました。

ですから、心を観察するのが難しいと感じるなら、身体の動きから観察することからはじめるとよいのかもしれません。

外出中なら、自分の歩き方に注意を払うというように。



自分の気持ちに気づくというのは、実際にやってみると本当に難しい

なかなかスムーズにはいかず、何度も失敗しながら進んでいくことになります。

油断すると、すぐ感情に飲み込まれて気づきが失われます。



気づきが失われたことに気づいて気を取り直し、再び観察するということを繰り返しています。

あまり意識することのない何気ない自分の日常を、意識的に観察していくわけですからけっこうエネルギーを使います。

とても根気が必要です。



ただ、このようなことを断続的ながらもやり続けて4年が過ぎましたが、臨床に関わることだけではなく、自分の中でも何かが変わってきて、これまでよりも気持ちが落ち着いていられる気がしています。

自分にとって価値があることのように感じるので、地道にやっていこうと思っています。



みなさんも決して無理をすることはないのですが、チャレンジしたらそれだけ得るものはきっとあると思いますよ。





次回は5月17日(土)に更新です。



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