今回は、技術を身につけるということについてのお話し。
セミナーで手技療法の基本技術についてお話しするとき、私はできるだけ身近に経験しているシンプルな言葉を使うようにしています。
ポジショニングの基本なら「おじぎをして手がつく位置で操作をする」という感じで。
そのように表現したほうが、敷居が低くなって基本のイロハを身につけやすいと考えるからです。
難しい言葉を使うと、それだけで身構えてしまうか、反対に変にありがたみを持ってしまって、大事なポイントを外してしまう方がいる。
あるいは対象が限定されてしまう結果、かえって視野を狭めてしまう人もいるように感じています。
でも、シンプルに受け止め過ぎるのも困りもの。
表面的な字面だけを理解して、わかったつもり、できたつもりになっているケースも見受けられます。
敷居が低いからといって、奥行きがないとは限りません。
言葉は方向性を示す「矢印」や「道しるべ」のようなもの。
目的地を指している矢印は、目的地そのものではありません。
当たり前のことですね。
しかし矢印を見ただけで、あるいはその方向へ少し進んだだけで、目的地に着いた気がしている方もいるようです。
その姿を想像してみたら滑稽ではないでしょうか。
おじぎをしたら手がつく位置で操作をする。
たったこれだけのことを、さまざまな状況で意識しなくても操作ができるようになるためには、どれだけの練習と工夫が必要になるか。
あるいは、この操作から外れた方法を用いるべき状況、それをどう判断して使い分けていくのか。
身体に染み込ませていくプロセスは、決してシンプルなものではないでしょう。
20年以上やり続けても、まだ私は納得できないでいます。
とはいえ、手技療法だけできればよいという方ばかりではないので、ある程度マスターしたらひとまずOKということもあり。
むしろそちらの方が多数派でしょう。
ですから、自分の目的に応じて学ぶ程度を決めればよいのですが、それぞれの道にはまだ先があることは忘れないでいて欲しいと思います。
ある程度のレベルまで効率よく身につける方法もあるけれど、その先にじっくり取組む道もあるということを。
表面的なところだけで、すべてを理解したつもりにはならないように。
その一方で、重く受け止め過ぎてはいけない人もいます。
これはマジメな方にありがちかもしれません。
言葉そのものにとらわれてそれを本質とし、金科玉条のように扱うと、地に足が着かなくなって現実から離れていってしまいます。
「おじぎをしたら手がつく位置で操作する」は、自分にとって楽に操作するためのヒントになります。
けれどもこのヒントを、いつでも、どこでも、だれにでも当てはめるとしたら必ずムリが生じます。
目的地を示した矢印をありがたがってしがみついていても、目的地には着かないもの。
矢印で方向性を確認したら、そこから離れて目的地に向けて歩いていかなければいけません。
道の途中には、迂回しなければならない時だってあるでしょう。
同じように、一見すると基本から離れているように見える操作を行わなければならない時だってあります。
このように、基本技術を説明するための言葉は、頭で理解できれば終わり、ソコソコできれば用済みというものではなく、また崇め奉るものでもありません。
言葉は、技術を磨き続けるために活用する道具なのですから。
言葉を手がかりに自分の技術を省みて、試行錯誤をしながら精度を高めていく。
やがては考え方を身につけ、それが見方を広げて人間を作っていく。
すると言葉は、人間を成長させるための道具にもなっていきます。
これは何も名言・至言・金言の類だけではありません。
「おじぎをしたら手がつく位置で操作する」なら、身の丈に応じたことを確実に行っていくという生き方につながっていきます。
言葉を技術として表現し、さらに生き方として体現していくわけです。
言葉という道具を軽く、あるいは重く扱い過ぎることなく、バランスを保ちながら使いこなして、自分を磨くための糧にしていけたらいいですね。
セミナーで手技療法の基本技術についてお話しするとき、私はできるだけ身近に経験しているシンプルな言葉を使うようにしています。
ポジショニングの基本なら「おじぎをして手がつく位置で操作をする」という感じで。
そのように表現したほうが、敷居が低くなって基本のイロハを身につけやすいと考えるからです。
難しい言葉を使うと、それだけで身構えてしまうか、反対に変にありがたみを持ってしまって、大事なポイントを外してしまう方がいる。
あるいは対象が限定されてしまう結果、かえって視野を狭めてしまう人もいるように感じています。
でも、シンプルに受け止め過ぎるのも困りもの。
表面的な字面だけを理解して、わかったつもり、できたつもりになっているケースも見受けられます。
敷居が低いからといって、奥行きがないとは限りません。
言葉は方向性を示す「矢印」や「道しるべ」のようなもの。
目的地を指している矢印は、目的地そのものではありません。
当たり前のことですね。
しかし矢印を見ただけで、あるいはその方向へ少し進んだだけで、目的地に着いた気がしている方もいるようです。
その姿を想像してみたら滑稽ではないでしょうか。
おじぎをしたら手がつく位置で操作をする。
たったこれだけのことを、さまざまな状況で意識しなくても操作ができるようになるためには、どれだけの練習と工夫が必要になるか。
あるいは、この操作から外れた方法を用いるべき状況、それをどう判断して使い分けていくのか。
身体に染み込ませていくプロセスは、決してシンプルなものではないでしょう。
20年以上やり続けても、まだ私は納得できないでいます。
とはいえ、手技療法だけできればよいという方ばかりではないので、ある程度マスターしたらひとまずOKということもあり。
むしろそちらの方が多数派でしょう。
ですから、自分の目的に応じて学ぶ程度を決めればよいのですが、それぞれの道にはまだ先があることは忘れないでいて欲しいと思います。
ある程度のレベルまで効率よく身につける方法もあるけれど、その先にじっくり取組む道もあるということを。
表面的なところだけで、すべてを理解したつもりにはならないように。
その一方で、重く受け止め過ぎてはいけない人もいます。
これはマジメな方にありがちかもしれません。
言葉そのものにとらわれてそれを本質とし、金科玉条のように扱うと、地に足が着かなくなって現実から離れていってしまいます。
「おじぎをしたら手がつく位置で操作する」は、自分にとって楽に操作するためのヒントになります。
けれどもこのヒントを、いつでも、どこでも、だれにでも当てはめるとしたら必ずムリが生じます。
目的地を示した矢印をありがたがってしがみついていても、目的地には着かないもの。
矢印で方向性を確認したら、そこから離れて目的地に向けて歩いていかなければいけません。
道の途中には、迂回しなければならない時だってあるでしょう。
同じように、一見すると基本から離れているように見える操作を行わなければならない時だってあります。
このように、基本技術を説明するための言葉は、頭で理解できれば終わり、ソコソコできれば用済みというものではなく、また崇め奉るものでもありません。
言葉は、技術を磨き続けるために活用する道具なのですから。
言葉を手がかりに自分の技術を省みて、試行錯誤をしながら精度を高めていく。
やがては考え方を身につけ、それが見方を広げて人間を作っていく。
すると言葉は、人間を成長させるための道具にもなっていきます。
これは何も名言・至言・金言の類だけではありません。
「おじぎをしたら手がつく位置で操作する」なら、身の丈に応じたことを確実に行っていくという生き方につながっていきます。
言葉を技術として表現し、さらに生き方として体現していくわけです。
言葉という道具を軽く、あるいは重く扱い過ぎることなく、バランスを保ちながら使いこなして、自分を磨くための糧にしていけたらいいですね。
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