手技療法の寺子屋

手技療法の体系化を夢みる、くつぬぎ手技治療院院長のブログ

「願い」あっての技術

2016-08-21 08:20:15 | 治療についてのひとりごと
「病気の知人に何かできないか、一度でいいから診てもらえないか」


お世話になっている方から連絡をいただきました。

進行性の神経難病で、全介助が必要な状態ということでした。


距離的にも治療院の現状からも往診は難しいのですが、日程を調整して昨日仕事を終えた後、車で向かいました。

久しぶりの大雨で、時おりワイパーも効きません。

高速道路もゆっくりしか走れず、約束の時間ギリギリに到着し、ご自宅へ案内していただきました。


お身体を拝見した私は、筋の委縮や関節の拘縮が随所にみられるなか、できるだけシンプルな方法で行えるよう考えました。

同席されていた、ご家族や身内の方でもできるように。


はじめは、私がある程度行った上でご家族たちに教え、やっていただきながら進めました。

みなさん真剣そのものです。


後半になると、私はやり方を簡単に伝えるだけで、あとはご家族たちで行っていただきました。

受けていてどう感じるのか、患者さんにも伺いながら進めたのですが、たどたどしいながらも言葉で、そして身体で心地よさを表現されています。


そして終了後、ベッドの上にはリラックスして力みなく休まれている患者さんの姿がありました。

限られた範囲ながら、身体の動きも楽そう。

何より表情が穏やかでした。


その変化に私も内心驚きました。

手技療法を専門にしている人ですら、みんながこのような結果を出すことは難しいでしょう。


さいごに、私が手順を話しながらやっているところを動画に撮っていただきました。

一度感覚をつかまれているので、確認用にきっと役立つはず。


雨足も弱まった帰り道、運転しながら高校生だった25年前のことを思い出していました。

病床の祖父を見舞った時、意識のない身体を訳も分からずさすっていたら、険しかった表情が和らいだこと。

この道を志す、自分の原点になった出来事です。


今回の経験から改めて感じました。

「想い」や「願い」あっての技術だと。


かといって精神論を振りかざすつもりはありません。

技術は技術、磨かなければならないものです。


でも「想い」や「願い」がないと、技術は十分に力を発揮できない。

医学としてはふさわしくない考えかもしれないけど、医療としては間違っていない感覚だと思います。


そして、だからこそ人間が人間を診る価値がある。


コンピューターがさらに進歩して、ベテランの医師でも発見が難しいような異常を見つけ出せるようなる。

それまで不可能だった部分の手術も、マイクロロボットで行えるようなる。


そのようになったとしても、人間が人間を診る価値は変わらないでしょう。

むしろそれくらい技術が進歩しても、やはり満たされない何かがあると気づいたとき、その重要性が改めて認識されるのではないでしょうか。


人間が人間を診るということは、病気が治るとか治らないということも越えたところに、その価値があるように思います。


症状の原因というものについて

2016-08-04 23:17:38 | 治療についてのひとりごと
《Face Book の過去記事から》

慢性頭痛でお悩みの方が相談にみえました。

これまであちこち訪ね、さまざまな治療法を試し、言うのも恥ずかしいくらいの量の痛み止めを飲んできたそうです。

それでもここ数年ほぼ毎日頭痛があり、悶々とした日々を送って来られました。



お身体を拝見すると、筋の緊張も強く、動きにも余裕がありません。

ひとことで言えば、息を吸った状態で止まっているような感じです。

まずは、ゆったりと呼吸できる身体となるようにアプローチしていきました。



あお向けで、みぞおちを緩めていたときのこと。

突然、患者さんの目に涙があふれ始めました。

そして最後に頚部から後頭部の緊張を和らげている時、声を上げて泣き出されました。

私はティッシュを差し出して「気持ちが落ち着くまで泣いていていいですよ」とお話しをし、そのまま待っていました。



身体にアプローチしていると感情があふれ出すことが時々ありますが、なかでも悲しみが表現された時はドラマチックです。

悲しみの場合、その感情を出し切ったとき、何をやっても変わらなかった緊張が和らぎ、気持ちも症状も楽になることがあります。



こちらの患者さんも、「よくわからなかったけど、とにかく悲しかった」と後でお話しされたのですが、泣いて目を腫らしているのを恥ずかしそうにしつつも、肩の力が抜けてリラックスし、笑顔になっていました。

頭痛もなくなり、呼吸もよい動きです。

お帰りのときは、来院された時とは違って穏やかな表情でした。



とても印象深いエピソードだと思います。

でも注意しなければいけないのは、これはあくまでエピソードのひとつだということ。

みぞおちや頚部などの筋肉の緊張を和らげた「から」感情の開放が起こり、愁訴も軽快したという原因と結果の関係、因果関係を示す説明はできません。



みぞおちや頚部などの筋肉の緊張と、感情の問題を理屈で結びつけることはできるかもしれません。

でも、みぞおちや首筋などの筋肉をゆるめると、感情の開放が必ず起こるとはいえないでしょう。

身体のバランスが整うことで、心理的な問題が改善することがあっても、すべての心理的問題が、身体のバランスを整えることによってよくなるわけではない。

当たり前のことですよね。



今回のケースも言えるとしたら、筋肉の緊張が和らぐと共に他の条件が重なったことによって、自発的に感情の開放が起こった。

このあたりまででしょうか。



このように、どこまでなら「そうだ」といえるのか、その範囲を限定して示しておくことはとても大切です。

ここを押さえた上で、いろいろ仮説を立てて可能性を考えるのは、今後の発展のためにも必要なこと。



マニュアルセラピーの中でも身体から心に働きかける、体性感情開放やトラウマリリーステクニックというアプローチがあります。

前者はリラックスさせる中で、後者はトラウマを受けた窮屈な肢位を取った状態から、トラウマなどを開放させる方法だそうですが、もしかしたら今回そのパターンにはまったのかもしれません。



また東洋医学では、心と体を分けて考えずにアプローチします。

東洋医学的な臓腑の相互作用や、経絡という気の流れに、何らかの変化が起こったのでしょうか?



ある心の状態が、特定の部位に緊張の変化として現れるという経験的知識もあります。

セラピストと患者の交流によって生じた認知面の変化、あるいは抑圧の開放など、心理学的な解説もできるでしょうか。

最近いろいろ明らかになっている脳科学の知識からも、その一部が説明できるかもしれませんね。



さらには、治療院の中には私と患者さんの2人だけだったという環境要因も、条件から外せないかもしれません。

他にも誰かいたとしたら、果たして同じことが起こったでしょうか?



このように観察者の視点によって、さまざまな解釈が可能です。

視点の数だけ説明があるといえるかもしれません。



そうなってくると、「~だから」という原因を示す言葉は、簡単に使いにくくなってきますね。

使うとしたら「~である時には」とか「~に限ってみると」というように、条件を特定しておく必要があります。



なぜこのようなことをお話しするのかというと、セラピストのなかには、あるポイントに、あるアプローチ法を用いたらよくなったという経験から、そのポイントを原因として一般化し、いつでもどこでも誰にでも当てはまるというような言い方をする方もいるからです。



自分が見つけたことや考えたことには情が移りますから、そのような言い方をしてしまう気持ちも理解できますが、それは勇み足、風呂敷の広げ過ぎというものかもしれません。

良い結果が出たことはもちろん本当でしょうが、そうでないケースもたくさんあるはず。



どのような状況のときに良い結果がでて、反対にどのような状況なら結果が思わしくなかったのか。

冷静に見極めなければいけません。

そうでないと、せっかくの貴重や発見や経験も周囲から眉つばに見られ、もったいないことになりかねないからです。



統計学的な考え方が重視されるようになってきているのは、そのようなことが起こらないためでもあるでしょう。

臨床はオーダーメイドなので、統計的に有意差が認められることだけが全てだと思いませんが、できるだけ慎重でありたいところです。

表現の仕方については特にそう。



マニュアルセラピーは、今の医療の中では決してメジャーな方法ではないかもしれませんが、薬にような副作用もなく、侵襲性も低いもの。

痛みや不定愁訴など、多くの方が日常的に訴える症状の改善に役立つ可能性があると思います。

だからこそ、大切にしていきたいですね。



また、自分は広い範囲をみているつもりでも、実はひとつの視点に囚われていることもあります。

それによって自分の成長も妨げてしまうかもしれません。



条件を特定することは、それに当てはまらないこともあるということを予め認識していることになります。

自分にはわからないところがある、ということをわかっていることは、井の中の蛙になることを避けられます。



はじめは人から直接教わって学びますが、最終的に求められるのは、自分で自分を成長させる力。

安易に結論付けないというのは、そのためにも大切だと思います。



後日、患者さんからお礼の電話が入り、「母もいちど診てほしい」というご相談をいただきました。

頭痛もずいぶん軽くなり、毎日を楽に過ごされているそうです。

このようなお話を伺うと、心底よかったと胸をなで下ろしてホッとします。



それにしても、なぜこのようなことが起こるのでしょうか?

やっぱり不思議ですね。