手技療法の寺子屋

手技療法の体系化を夢みる、くつぬぎ手技治療院院長のブログ

学習塾と進学塾 〜手技療法界に足りていないところ

2018-03-21 18:55:23 | 治療についてのひとりごと
最近は、手技療法のセミナーも数多く開催されるようになりました。

募集のPRを眺めていると、養成校で学ぶことを発展させたもの、より専門性が高いもの、より繊細な感覚をうたったものもよく見られるように思います。

それらのセミナーは「進学塾」のようなもの、と私は捉えています。

進学塾は学校で学ぶよりも、より進んだ内容を教えるところですね。

一方で、学校での学習を補う「学習塾」もあります。

学校で学ぶことをもっとかみ砕いて教え、理解し習得できるようにするところです。

私は現在の手技療法の世界には、学習塾のような存在が足りていないと思っています。

手技療法はわが国の国家資格なら、あん摩マッサージ指圧師を除くほとんどの養成校で十分な履修時間が取られていません。

資格として仕方ない面もあるのですが、卒業後、働く現場によっては手技療法が求められ、先輩から教わったことを見よう見まねで行っているケースもあります。

ところが基本の習得が不十分だと、効果を挙げにくく、また自分の身体も傷めやすい。

また、あん摩マッサージ指圧師の養成校でも、ひたすら型を反復させる練習が中心です(少なくとも私が受けた教育は)。

反復練習は技術取得の重要な要素ですが、ただ反復させるだけでは気づく人は気づくけど、そうでない人はポイントが理解できないまま反復し続けることになります。

ですから学習塾のように技術をかみ砕いて教え、ポイントをより習得しやすくした上で、反復練習をする必要があります。

進学塾と学習塾を比べた場合、進学塾のほうが華があるように見えて、そちらに足が向いてしまうのは仕方ありません。

専門職には、より高度で繊細な技術が求められますから。

でも、もし自分の実力がそれに見合っていない場合、レベルの差が大きければ大きいほど習得は難しくなります。

身の丈に応じたことをしないのは、自分も苦しく、コントロールが難しいために患者さんにも迷惑をかける可能性があります。

だから、学校でカバーしきれない基本をかみ砕いて教えて反復させる。

その上で個人の関心や能力、あるいは現場からの要請に応じた方向に進んで行けばいい。

私はそのような学習塾スタイルで、セミナーを行っていきたいと考えています。

「練習はフルスイングから!」が合言葉なので、

それを「くもん式(苦悶式)」とも呼ぶ方もおられますが・・・^^;

感覚(経験)とエビデンス

2018-02-20 07:43:48 | 治療についてのひとりごと
手技療法の世界にいると、感覚(経験)を重視する立場とエビデンスを重視する立場が、互いに批判しあっているところを目にすることが時々あります。

他の分野でも似たようなことはきっとあるでしょうが、それを見るたびに残念な気持ちになります。

感覚(経験)とエビデンスの違いを道路で例えるなら、獣道や砂利道のような未舗装の道路と、アスファルトで固めた舗装道路の違いではないかと私は思っています。

この場合、感覚(経験)が獣道・砂利道で、エビデンスは舗装道路です。

砂利道は舗装道路より簡単に作ることができますが、多くの人や車を効率よく通すには向いていません。

多少の悪路でも気にせずガンガン行けるという人たちもいますが、そのような方ばかりではないですから都市のインフラとしては弱いものがあります。

同様に、感覚は精度に個人差はあっても触れればわかるので取り掛かりやすいものです。

感覚の世界にガンガン突き進む方もいますが、疑問を感じて踏みとどまる人もいます。

だから感覚的・経験的に得られた結論を、広く世間一般で共有するのは難しいかもしれません。

これに対して舗装道路は作るまでには手間隙かかりますが、出来上がってしまえばより多くの人や車を通すことができます。

やはり舗装された道のほうが快適で安心だという方は多いでしょう。

エビデンスが出来るまでには手間暇かかりますが、それを作ることによってより多くの人が安心して利用しやすくなるはずです。

でも、すべての道が舗装されているわけではないし、未舗装でも必要とされ役立っている道はたくさんあります。

同じように未だエビデンスが得られていない方法でも、経験的には有効だから現場では使われているものも現実としてある。

さらに既にある道に飽き足らず、あえて人が通っていないような獣道を切り開いて進もうする開拓者もいるでしょう。

同じように前例がなくても、リスクを回避しながら新たに考案した方法を作っていこうとする人たちもいます。

こうして道路ができていく順序を考えると、はじめに開拓者によって獣道みたいなものがをでき、次いで砂利道となってやがて舗装道路が作られる。

それらの道は別々のものではなく、より多くの人が快適に使える段階の違いです。

感覚とエビデンスも道路のようなものだとすると、それらはより多くの人が納得できる段階の違いであって、別々のものではないということになります。

経験や感覚から生み出された仮説が、検証されることによってエビデンスとなる。

感覚で道を拓いてエビデンスで道を固める。

以上のように見てみると、感覚派(経験派)とエビデンス派に分かれて互いを批判しあうのはちょっと違うような気がします。

感覚に優れた人もいれば、エビデンスの構築に関心を持っている人もいるので、それぞれが得意な分野に力を注ぎながら、互いに弱いところをカバーしていけばよいのだろうと思います。

結局のところ、道路にせよ手技療法にせよ大切なのは、私たちが生きていくうえで役に立つかどうかであり、その役立ち度合いの裏づけとなるのが経験でありエビデンスなのでしょうから。

日々の臨床から

2017-10-04 15:39:14 | 治療についてのひとりごと
「10月に予定していた股関節の手術、痛みも動きも良くなったのでキャンセルしました」

股関節の症状でみえていた方がそうおっしゃっいました。

先日も脊柱管狭窄症の手術を予定されていた方が、手術しなくて良いところまで回復されました。


これは診断としての疾患名よりも、筋肉のコリや硬さなど機能障害のほうが、症状に影響を与えている割合が大きかったから良くなったわけで、何も特別なことではありません。

良くなるべくして良くなっただけです。(だから反対に、難しいものは難しいとも言えます)


ただ今回少し感慨深かったのは、お二人をご紹介してくださったのが整形外科の医師だったということ。

これまで手術を予定されている方が来院されることはあったのですが、整形外科からのご紹介なんてありませんでした。

どちらかというと、この業界は斜めに見られていることが多いですし、そう見られても仕方のない状況ではありすから。


理解のある先生はまだまだ少ないと思いますが、少しずつ変わっていっている。

そんな空気を感じました。

それを大切に育てていきたい。


だから「病院では治らなかった症状が・・・」というPRを打ち出しているうちは、業界としてはまだまだレベルが低い。

病院と対決姿勢を取っているだけで、役割の違いを打ち出せていないわけですから。

それぞれの役割の違いを社会全体として認識し、状況に応じたサービスを迷うことなく受けることができる。

そんな世の中にしていきたいですね。

問診だけで見切らない

2017-09-06 20:39:56 | 治療についてのひとりごと
先日のセミナーでのこと。

いつもは手技療法の実技ばかりやっていますが、ひょんなことから問診の注意点も少しお話させていただきました。


それは手技療法を行うなら「問診だけで見切ったつもりにならず、可能な限り患部に触れて状態を確認する」ということです。

視診(動作分析)についても同じことがいえるでしょう。


そして「触れる際には、問診で得た情報はいったん頭の脇に置いて触れる」つまり「先入観を持って触れない」ということ。

先入観を持って触れると手から伝わる情報を、自分の考えに都合の良いよう解釈しやすいからです。

あくまで触診で得られた情報からそれが何を意味するかを検討し、問診で得られた情報とつじつまが合うか照合していくようにします。


例えばひとつのケースとして、問診で安静時の持続痛や、視診にて多方向への運動時痛が同じ部位に出現していれば、組織破壊とそれに伴う炎症が生じていると考え、患部に対して直接介入するのは禁忌と判断するかもしれません。

でもそれだけで見切ったつもりにならず、先入観を持たずに患部に触れてその状態を確認しましょう。

(もちろん激痛で身動きがとれない時など例外はあります)


炎症が起きている部位には、熱感と共に組織の脆弱性や局所性の浮腫、もしくは腫れを伴う過緊張がみられます。

発赤は浅いところや強い炎症ならわかいやすいのですが、深部にある時は確認しにくいもの。

その時は「熱感」が手掛かりになります。


手でそっと患部に触れると、表面はさほどでもなくても、奥のほうから温かさを感じることがあります。

ちょうどストーブから離れたところで、手をかざしているような感じでしょうか。

目を閉じていても熱源がどのあたりか大よそ見当がつく、ということと似ているかもしれません。


触れずにかざしたほうがよくわかるという場合はそれでもOK。

自分のわかりやすいほうで行えばよいでしょう。

私は念のため、両方用いることもあります。


実際に触れてみて、周囲より患部の温度が高くなっているようなら、炎症を起こしている可能性はより高くはなるでしょう。

けれども、これで決定とはなりません。


問診や視診によって安静時痛と運動時痛を認めても、比較的軽度であり、触診で熱感があっても、脆弱性や強い腫張がない。

そんな時、試験的に周囲の緊張を低下させてみると、熱感が引いて安静時痛・運動時痛が軽減することもあります。

結果的にこの場合の症状は、炎症より充血による影響が大きかったのかもしれません。


あるいは、安静時痛や運動時痛があり、触診で熱感を患部の認めても脆弱性や強い腫脹はないという同じ状況に加え、、局所的な緊張を触知できるなら、それは活動性のトリガーポイントによる症状のこともあります。

この場合は、患部に対して刺激量を考慮しつつ、直接的にアプローチしていくことも私は検討します。


適応と禁忌の鑑別についてはグレーゾーンも少なくありません。

だからこそ簡単に見切らず、必ず患部に触れてその状態を確認すべきです。


患者さんの心情としても、患部の状態を確認しないまま治療を進めて改善感が乏しかった場合、不安や不信感を持ってしまうこともあるかもしれません。

遠隔的なアプローチをする場合、特にそうでしょう。


「問診で8割は決まる」という話もあるくらい、問診は非常に重要なもの。

けれども手技療法を用いるのであれば、触診による情報も重視されるべきであり、そのための触診能力は高めておかなければならないと思います。


自立したセラピストを目指して

2017-08-16 18:19:34 | 治療についてのひとりごと
私のセミナーでは、まずはフルスイングで、しっかりと強い刺激を加えて練習するよう指示しています。

それはどのようなスポーツでも、はじめは大きく力強いフォームで練習するところから始めるということと理由は同じです。

大きなフォームでしっかり操作できるようになっておけば、コンパクトなフォームになっても身体を使った操作が行いやすいはず。

同時に手技療法を臨床で用いるなら、どこまでの刺激が限界なのかを身体で知っておく必要がある。

そのように考えています。


刺激については、この業界の中には強い刺激の手技療法に対して否定的な考え方もあります。

「強い刺激は組織を傷める」

「強い刺激はクセになって、さらに強い刺激を求めるようになる」etc

だから「強い刺激はよくない!」


確かに一理あるかもしれませんが、この考え方は私には、

「辛い食べ物は胃腸を傷めるから、身体によくない」

と言っているのに等しく聞こえます。


辛い食べ物を食べればお腹を壊し、翌朝お尻がたいへんなことになる人も確かにいます(私もそう)。

その時に胃腸の粘膜を調べたら、もしかするとタダレている様子が確認できるかもしれません。

そうなると臨床症状と共に、客観的な証拠が示されていることになります。

だからといって、それを根拠にして全面的に「辛い食べ物はよくない」としたら、みなさんは素直に納得されるでしょうか。


きっと「体温をあげて代謝を高める」というような、辛い食べ物のメリットも考えて首を傾げる方も多いと思います。

辛い食べ物が合わない人や、身体が弱っている時には食べないほうがいいけど、体に合う人や健康な時ならいい。

常識的にはそのように、個人差や状況に合わせて判断し使い分けているはず。

そのようなバランスの取れた常識的判断が専門分野になると何故か抜け落ち、一面的な議論になっていることも時にあるように思います。


先ほどとは反対に、強い刺激を良しとする立場でもそれは同じ。

「強い刺激だからこそ効く」

「強い刺激で効かなかったり、クセになるのはセラピストが下手だから」


私も臨床では強い刺激を用いることが多い立場で、その効果は実感しています。

でも強い刺激をいつでもどこでも、誰にでも加えてよいとしているわけではありません。

(個人的には同業の人相手だと、調子に乗ってやり過ぎて失敗することはあります

辛い料理だけが料理のすべてではないことと同じ。

だから「強い刺激だから効く」というのも一面的な考え方です。


以上のような一面的な考え(仮説・理論)に振り回されないようにするには、自分の「目」と「手」で確認したことを学んだ知識に照らし合わせつつ、批判的な思考力で判断できる「頭」を持った、自立したセラピストになる必要があります。

そして「手」で確認できるようになるためには、弱い刺激から強い刺激まで使い分けることが出来る、振り幅の広い技術を身につけておいたほうがよいと私は考えています。


そのために練習では、フルスイングで身体を大きく動かしてしっかり刺激を加えられるようになっておくと共に、これ以上は危険というラインを身体で体験して覚えておく。

その上で、状況に応じた刺激の使い分けやコントロールを行えるようになるように、自分で自分の技術を信頼できるようになるまで練習する。

つまり私がフルスイングで練習するよう指示している意図は、やがては定説ですら疑いを持つような自立したセラピストになるということを目指してのことです。


誰かの話を鵜呑みにするのではなく、自分の拠りどころを自分自身に求められるセラピストになるように。

そんな願いを込めて。

セミナーも治療も「痛いこと」が強調されがちなので、私のやっていることだけ見ていたら、伝わりにくいかもしれませんが


初期症状で鑑別する難しさ

2017-07-05 20:00:37 | 治療についてのひとりごと
時々相談にみえる患者さん。

今回は、頭から首へのコリ感と鈍痛の訴えでいらっしゃいました。


首の動きはさほど支障なく、倒すとつっぱる程度。

拝見するとあちこちにコリがあって、身体も傾いています。

コリをほぐし、左右のバランスを回復させたら症状も落ちつきました。


ところが翌日には症状が再発し、しばらくすると発疹が出てきたとの連絡が入りました。

すぐに皮膚科へ受診されるよう勧めたところ、結果は帯状疱疹。

受診時を振り返れば、痛みもヒリヒリ、チクチクではなく、重くコッた感じ。

注意を要する安静時の症状ではあったけれど、強いものではなく、ふつうのコリでも起こり得る程度。

何か見落としていたところはないか?といろいろ考える。


ややこしいのは、治療によって症状が改善したということ。

改善しなければ「ナゼか?」を考えるけど、なまじ良くなるとその場での判断は難しい。


二千年前からある東洋医学の古典に

「病の生ずるは 極めて微 極めて精なり (黄帝内経 素問)」

という下りがあったと記憶しているけど、初期段階での鑑別は今も昔も難しいもの。


でも難しいながらも、何かしらのサインが出ていないか、常に注意してのぞむ姿勢は必要。

そして一度良くなった時に、それで身体を見切ったように思わないこと。

身体は常に変化するものだし、場合によっては腫瘍だったということもあり得るのだから。


だから評価というものは、常に暫定的なものという意識を忘れない。

改めてその大切さを思い知らされ、反省したケースでした。

困った勘違い

2017-05-10 06:59:02 | 治療についてのひとりごと
《FBより》

私は手技療法に興味を持って、もっぱらこればかりやってきて20年余りになります。

ところが時々ですが、私がテーピングなど他の方法を否定的にみていると勘違いしている同業の方がおられます。

そんなことはまったくはありませんし、お話しした覚えもありません。

「ソバが好き」イコール「パスタは嫌い」とはならないのと同じように、

「手技療法は良い」イコール「テーピングは悪い」とはならないでしょう。

身近な日常を例えにしたら当たり前のことですよね(^^)

むしろひとつのことに専念するほど、他の分野で情熱を注いでいる方に敬意を持つようになるものです。

とはいえ、誤解や曲解は世の常だから、私個人がどう思われても仕方ありません。

心配するのはそのような考えをしている方は、臨床でも安易な因果関係の結び付けや、こじつけをしている可能性があるのではないかということ。

「一事が万事」とも言いますから。

仮説が事実であるかのように説明したり、相関関係と因果関係がまぜこぜになっていたとしたら、それこそ大問題。

プロの妄想はクライアントに直接迷惑をかけます。

そうならいためには専門分野の勉強も大切ですが、日常の何気ない自分の考え方、言葉遣いや文章表現にこそ注意を払って、思い込みやこじつけを自覚するトレーニングしておくことが必要だと思います。

手間のかかることではありますが、修行は常住坐臥。

私も特に家族に対しては、ついつい甘くなってよくツッコまれるので気をつけますf(^^;

治る道のりも人それぞれ

2017-04-11 20:52:31 | 治療についてのひとりごと
ある時、腰椎椎間板ヘルニアの診断を受けた年配の女性が来院されました。

左脚の痛みが激しくて、身体を伸ばすことができず、ご主人につかまりながら。

家の中を歩く時も深々とおじぎをした状態で、あちこちつかみながらやっとの思いで歩く、という生活を既に3ヶ月以上続けていらしたそうです。

痛み止めやブロック注射をはじめ、いろいろな治療を試みたものの思わしくないため、病院で手術を勧められたとか。

でもなかなか決心がつかず、人伝えに治療院を紹介されてのご相談でした。

いただいたMRIのコピーからもヘルニアを認めるのですが、痛みはかなり激しいものの場所が移動し、しびれあっても触れられた感覚ははっきりしており、足の力も入ります。

そのため現時点での症状が、ヘルニアによるものか疑わしいと感じました。

横向きなら寝られるとのことで休んでいただいたのですが、左下肢を伸ばそうとすると筋の痙攣が強くなり、痛みのために伸びません。

ヘルニアに伴う炎症があったと仮定しても、この状態が3か月というのは長すぎます。

そこで、身体がリラックスするポジションを探して緊張が和らぐのを待つという、おだやかな方法を用いて少しずつ痙攣を和らげ、痛みが少なくなってから徐々に伸ばすようにしていきました。

胸や背中まわりも合わせて治療し、立っていただくと浅いおじぎ程度まで身体を起こせるようになられています。

テニスボールを用いたセルフケアをアドバイスし、私には珍しいのですが症状が激しいので数日以内の受診を勧め、4日後にみえることになりました。

2回目来院された際、腰はまた大きく曲がり、症状も元に戻ったようだと落胆されている様子でした。

しかし、ベッドの上で左脚を動かすと前回よりも伸びが良くなっており、腰や骨盤まわりの緊張感も和らいでいるようです。

私は手ごたえを感じました。

患者さんに変化を伝えて励まし、1週間後に3回目の治療を行いました。

徐々に腰を伸ばす角度は広がってきたのですが、しっかり伸ばそうとすると痛みが続くために患者さんの表情は冴えません。

「痛みはありますが、動かせる範囲が広がってきていますからこの調子で大丈夫ですよ」

いろいろ言葉を変えながらお話ししますが、悲しそうな笑顔を浮かべられます。

状態の変化をどのように受け止めるのかは個人差があります。

コップに水が半分もあると思うのか、半分しかないと思うのかというように。

この受け止め方を変えるのには、時間が必要となる場合も少なくありません。

4回目の治療の後に電話があり、やはり手術も検討してみようと思うので治療をいったん休むとのお話でした。

たいへん残念に思いましたが、もう一度私の考えをお伝えし、セルフケアは続けていただくようお話をするのが精一杯でした。

それから1ヶ月ほど過ぎたある日のお昼休み、カルテを書いているときにドアが開いたので顔を上げたら、その患者さんがいらっしゃいました。

それも満面の笑みを浮かべながら、背筋をまっすぐにした姿で。

突然だったので私は驚きながらあいさつをし、これまでの様子を伺いました。

最後の電話の後、ご夫婦で手術を検討されたのですが身近な周囲から反対され、やはり悩まれていた患者さん。

それでもテニスボールのケアをすると、痛みが紛れるような気がされていたそうです。

1週間ほどセルフケア続けていたあるとき、何だか急に痛みが抜け始めた感覚になり、そこから動ける徐々に動けるように。

2週間前までは、念のため杖をついていたそうですが、

「シャンとした姿を見せたくて、自分でケアを続けていたんですよ」だとのこと。

よかった、本当によかった(^^)

数日前にもう一度MRIを撮った時、症状は楽になっていても、ヘルニアの大きさは最初と変わっていなかったことに驚かれたそうです。

どうやら画像に映ったヘルニアが頭に焼き付いていて、治療院を受診されたときも、

「この治療でヘルニアが治るわけない」という思いも持たれていたみたい。

身体の変化をお話しても浮かない表情だった理由は、そのためだったのかもしれません。

もちろん、ヘルニアと症状がイコールではないとは何度もお話していたのですが、聞こえていても届いていなかったようです。

画像のインパクトは強烈です。

手術が必要になるケースもありますが、今回それを選ばれなかったことは結果的に幸いでした。

それからしばらく立ち話をしても痛がる様子もなく、元気な後ろ姿で帰って行かれました。

手技療法は農業でいうなら、畑を耕しているようなものだと思います。

かたい土だと芽が出ないので、手で「身体」という土を耕す。

運動やテニスボールでのセルフケアも、大まかには同じ性質のものでしょう。

芽を伸ばすためには、耕すことだけではなく、水や土の養分(食事)そして日光(休息)が必要で、時に農薬(薬)や枝の間引き(外科手術)が求められることもある。

今なら堆肥(サプリメント)もかな?

それによって、患者さん自身の持つ治癒力の芽が伸びていけば、回復可能なものは回復していく。

難しいのは、土を耕したからといって、すぐに芽が出るとは限らないということ。

慢性的であればあるほど、さるかに合戦のように「早く芽を出せ柿の種~♪」という訳にはいかないのですね。

そうなると、ひとつのアプローチがどれだけ効いているのが、はっきりしにくくなる。

今回のケースも手技療法がどれだけ役に立ったのか、本当のところはわかりません。

私が個人的に手ごたえを感じたとしても、たまたま治るべきタイミングだった、という指摘を受ける可能性もあるでしょう。

テニスボールも回復を助けたかもしれませんし、回復までの苦痛を和らげただけだという解釈もできるでしょう。

意味あるエピソードかもしれませんが、あくまでエピソードのひとつ。

ただ少なくとも、患者さんは途中から治療院を利用せず、セルフケアにより回復させた経験を通して、自分の健康を自分で保つということを学ばれたようです。

自信にあふれた笑顔がそれを物語っていました。

よい治り方をされました。

できれば、回復し始めた段階でも診ておきたかったというのは治療家としての人情ですが、それはあくまでこちら側の都合に過ぎません。

人の治り方はさまざま。

電車に乗るのも、立ってもいいから急行を使いたいという方もいれば、ゆっくり座って行きたいから各停でという方もいます。

これまで慢性の機能障害の方を多く拝見してきた経験では、「早く治りたい」とは誰もがおっしゃるのですが、行動を見るとそうではないという方も少なくありません。

その背景には身体的な理由だけではなく、心情的あるいは仕事や家庭などの社会的、経済的なことが理由になっていることもあるでしょう。

だから私たちは、患者さんがどのようにして回復していこうとされているのか、その道すじを理解しようしつつ見守る態度も必要になる。

そのようなことを改めて学んだエピソードでした。



急性期のアプローチとたとえ話

2017-02-19 08:09:43 | 治療についてのひとりごと
《Face bookより》

急性腰痛の患者さんがみえました。

安静時の痛みや、脚への痛みはないものの、

腰の曲げ伸ばしや左右へのひねりで、

いずれも背骨のまん中に痛みが出ていて、

咳をしても響きます。

腰に触れると表面から奥に熱を感じ、

おそらく関節部分への炎症を思わせる状態です。

炎症が起きている時は、その部分への刺激は基本的に禁忌。

でも状態によっては、まったく手出しができないわけではありません。

今回のケースなら、患部に負担をかけている周囲の状態を変えるようにしました。

殿部やわき腹、背中、首などにみられたコリをほぐし、

動きが悪くなった関節を動かせるようにします。

すると、起き上がる瞬間に少し痛みがあるものの、

曲げ伸ばしやひねりを加えても、さらに笑っても痛まなくなりました。

腰に触れると表面の熱感は少なくなっていますが、奥には残っているようです。

おそらく表面は充血により熱が出ており、循環が回復することによってそれが排出され、温度が下がったたのだろうと思います。

このように炎症と思われたのが、実は充血だったというケースは時々みられます。

起き上がりで体重がかかった瞬間に痛みが出たのは、残っていた関節周囲の炎症部位を刺激したためでしょう。

痛みがずいぶん楽になって、患者さんは不思議な顔をされ首を傾げています。

そこで私は説明しました。

「ズボンに穴が開いた時、そのズボンがピチピチだったら、動くたびに穴は引っ張られて大きくなりますが、

ユルユルならゆとりがあるので、穴は引っ張られないからそれ以上は大きくなりにくいでしょう。

身体も同じで、カチコチだったら少し動いても傷口にさわって痛みますが、

柔軟性があれば傷口にかかる負担が少なくなるので痛みも少なくなり、自然な経過で良くなりやすいですよ。

私の仕事はピチピチのズボンの生地を伸ばして、適度にユルユルにすることなんです。」

患者さんは納得されたようで、しきりにうなづいていました。

このように炎症だからといって、何もできないわけではありません。

それは椎間板ヘルニアや分離すべり症、脊柱管狭窄症という診断がついていても同じ。

患部にかかる負担を減らす工夫をすることによって、

苦痛を和らげ、より速やかな回復へ導くことが可能な場合があります。

とくに症状が長引くことにより、慢性化することを防ぐというのは大きな意味があると思います。

もちろん程度があって、激しい炎症ならすぐに改善するというのは難しいでしょう。

患部を冷やして安静を保ちながら、痛み止めで嵐が過ぎるのを待つという方法が望ましい場合もあります。

場合によっては手術が必要なケースだってあります。

ただ、自分たちにできること、私の場合なら手技療法で出来ることはないか考えること。

自分の守備範囲を確実に守りながら、その範囲を少しずつ広げていく努力をしていくことは大切だと思います。

ちなみに患者さんによっては動けるようになると、炎症が残っているのにドンドン動いて再発させてしまう方がいます。

そのようなタイプの方には、数日は大事に使うように念を押しておくか、

自覚を促すための手段として、同意の上であえて少し痛みを残しておくこともあります。

すべてがケースバイケースで、即興の対応が求められるところに臨床の面白さがあるのでしょうね。