手技療法の世界にいると、感覚(経験)を重視する立場とエビデンスを重視する立場が、互いに批判しあっているところを目にすることが時々あります。
他の分野でも似たようなことはきっとあるでしょうが、それを見るたびに残念な気持ちになります。
感覚(経験)とエビデンスの違いを道路で例えるなら、獣道や砂利道のような未舗装の道路と、アスファルトで固めた舗装道路の違いではないかと私は思っています。
この場合、感覚(経験)が獣道・砂利道で、エビデンスは舗装道路です。
砂利道は舗装道路より簡単に作ることができますが、多くの人や車を効率よく通すには向いていません。
多少の悪路でも気にせずガンガン行けるという人たちもいますが、そのような方ばかりではないですから都市のインフラとしては弱いものがあります。
同様に、感覚は精度に個人差はあっても触れればわかるので取り掛かりやすいものです。
感覚の世界にガンガン突き進む方もいますが、疑問を感じて踏みとどまる人もいます。
だから感覚的・経験的に得られた結論を、広く世間一般で共有するのは難しいかもしれません。
これに対して舗装道路は作るまでには手間隙かかりますが、出来上がってしまえばより多くの人や車を通すことができます。
やはり舗装された道のほうが快適で安心だという方は多いでしょう。
エビデンスが出来るまでには手間暇かかりますが、それを作ることによってより多くの人が安心して利用しやすくなるはずです。
でも、すべての道が舗装されているわけではないし、未舗装でも必要とされ役立っている道はたくさんあります。
同じように未だエビデンスが得られていない方法でも、経験的には有効だから現場では使われているものも現実としてある。
さらに既にある道に飽き足らず、あえて人が通っていないような獣道を切り開いて進もうする開拓者もいるでしょう。
同じように前例がなくても、リスクを回避しながら新たに考案した方法を作っていこうとする人たちもいます。
こうして道路ができていく順序を考えると、はじめに開拓者によって獣道みたいなものがをでき、次いで砂利道となってやがて舗装道路が作られる。
それらの道は別々のものではなく、より多くの人が快適に使える段階の違いです。
感覚とエビデンスも道路のようなものだとすると、それらはより多くの人が納得できる段階の違いであって、別々のものではないということになります。
経験や感覚から生み出された仮説が、検証されることによってエビデンスとなる。
感覚で道を拓いてエビデンスで道を固める。
以上のように見てみると、感覚派(経験派)とエビデンス派に分かれて互いを批判しあうのはちょっと違うような気がします。
感覚に優れた人もいれば、エビデンスの構築に関心を持っている人もいるので、それぞれが得意な分野に力を注ぎながら、互いに弱いところをカバーしていけばよいのだろうと思います。
結局のところ、道路にせよ手技療法にせよ大切なのは、私たちが生きていくうえで役に立つかどうかであり、その役立ち度合いの裏づけとなるのが経験でありエビデンスなのでしょうから。
他の分野でも似たようなことはきっとあるでしょうが、それを見るたびに残念な気持ちになります。
感覚(経験)とエビデンスの違いを道路で例えるなら、獣道や砂利道のような未舗装の道路と、アスファルトで固めた舗装道路の違いではないかと私は思っています。
この場合、感覚(経験)が獣道・砂利道で、エビデンスは舗装道路です。
砂利道は舗装道路より簡単に作ることができますが、多くの人や車を効率よく通すには向いていません。
多少の悪路でも気にせずガンガン行けるという人たちもいますが、そのような方ばかりではないですから都市のインフラとしては弱いものがあります。
同様に、感覚は精度に個人差はあっても触れればわかるので取り掛かりやすいものです。
感覚の世界にガンガン突き進む方もいますが、疑問を感じて踏みとどまる人もいます。
だから感覚的・経験的に得られた結論を、広く世間一般で共有するのは難しいかもしれません。
これに対して舗装道路は作るまでには手間隙かかりますが、出来上がってしまえばより多くの人や車を通すことができます。
やはり舗装された道のほうが快適で安心だという方は多いでしょう。
エビデンスが出来るまでには手間暇かかりますが、それを作ることによってより多くの人が安心して利用しやすくなるはずです。
でも、すべての道が舗装されているわけではないし、未舗装でも必要とされ役立っている道はたくさんあります。
同じように未だエビデンスが得られていない方法でも、経験的には有効だから現場では使われているものも現実としてある。
さらに既にある道に飽き足らず、あえて人が通っていないような獣道を切り開いて進もうする開拓者もいるでしょう。
同じように前例がなくても、リスクを回避しながら新たに考案した方法を作っていこうとする人たちもいます。
こうして道路ができていく順序を考えると、はじめに開拓者によって獣道みたいなものがをでき、次いで砂利道となってやがて舗装道路が作られる。
それらの道は別々のものではなく、より多くの人が快適に使える段階の違いです。
感覚とエビデンスも道路のようなものだとすると、それらはより多くの人が納得できる段階の違いであって、別々のものではないということになります。
経験や感覚から生み出された仮説が、検証されることによってエビデンスとなる。
感覚で道を拓いてエビデンスで道を固める。
以上のように見てみると、感覚派(経験派)とエビデンス派に分かれて互いを批判しあうのはちょっと違うような気がします。
感覚に優れた人もいれば、エビデンスの構築に関心を持っている人もいるので、それぞれが得意な分野に力を注ぎながら、互いに弱いところをカバーしていけばよいのだろうと思います。
結局のところ、道路にせよ手技療法にせよ大切なのは、私たちが生きていくうえで役に立つかどうかであり、その役立ち度合いの裏づけとなるのが経験でありエビデンスなのでしょうから。