手技療法の寺子屋

手技療法の体系化を夢みる、くつぬぎ手技治療院院長のブログ

手技療法の基本は「握手」その9≪まとめ-1≫

2012-10-27 20:00:00 | 学生さん・研修中の方のために
手技療法の基本は握手であるということ。

いかがでしょう、共感していただけるものだったでしょうか。



ところで私はこれまで、「押す」「引く」「まわす」が基本だとしたり、目標を持って触れるのが触診の基本だとしてきました。

あちらこちらでさまざまな基本をお話してきたので、ごっちゃになってしまうかもしれません。

ここで整理しておきましょう。

手技療法をひとつの「木」にたとえます。





このイラスト(もどき?)には表されていませんが、木が育つためには土や水、日光や空気など必要な周囲の環境があります。

まず「触れる・感じる・動かす」には土が当てはまるでしょう。

手技療法は、私たちが日常で使っているこれらの感覚や行動から成り立っているからです。



そして水や日光、空気は、「学ぶ」「考える」「練習する」ということになるでしょうか。

手技療法は実践ですから、頭と身体を動かさないと身につきません。

以上のことは手技療法に限らず、あらゆる技能の習得にいえることですね。



さて、ここから手技療法について、まず「根」です。

根は土(触れる、感じる、動かすという日常)の中にあって地上に出ていないので、なかなか目立つことはありません。

でも根は、幹や枝葉など木全体を養っています。

根がダメになった木は枯れてしまいます。

この根が、今回のシリーズでお伝えしてきた「握手」になります。

握手の「力の加え方」「相手の感じ方」「心構え」、そしてこれらをひとつにまとめた「一体感」が、手技療法の土台になると私は考えています。



根は、枝葉のように分かれていきますが、ひとつひとつはっきり分かれていくというよりも、土と一体になるかのようにだんだんわからなくなっていきます。

シリーズのはじめに、基本はやさしいようで難しい、難しいようでやさしいとお話ししました。

これが私の実感なのですが、そのような訳のわからないことを書いたのは、もしかすると、だんだんわからなくなるという「根」の性質にあるのかもしれませんね。

曰く言い難し、というものでしょうか。

でもそれでは伝わりませんので、あの手この手の表現で理解していただこうとして、脳ミソを絞ってお話ししてきました。



握手は私たちの日常の、ごくありふれた当たり前のものです。

ただ、それを技術として磨きをかけていくのがたいへんなわけです。

茶道を創始した千利休も、このような言葉を遺しています。

「当たり前のことが、いつでもどこでもできるならば、私があなた方の弟子になりましょう。」



人間と人間とが握手をする、ふれあうということ。

私は一生のテーマだと思っています。



ところで「怖がる患者さんとの思い出 その6」で書きました、患者さんに「あの先生の触り方はキライ」と言われるのは、きちんと握手ができていないからだろうと思います。

(もちろん、生理的に合わないというどうしようもない問題もありますが…)

握手やペットを抱き上げるときの触れ方ではなく、物をつかんでいるような触れ方になっている。

筋肉や関節を調べることに意識が行き過ぎて、探ろうという気持ちが前面に出てしまい、患者さんに違和感を持たせてしまっている。

対等な関係で関わろうという感じがしない、雑で荒っぽく、患者の状態を無視した横柄な触れ方になっている。

以上のいずれかの結果、患者さんにとって「やさしい手」になっていないのではないでしょうか。



つづいて木の「幹」です。






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手技療法の基本は「握手」その8≪心構えについて-4≫

2012-10-20 20:00:00 | 学生さん・研修中の方のために
患者さんとの交流において、触れるという非言語的コミュニケーションを成功させるため、セラピストに求められる条件は何でしょうか?



人間は社会的な生物である以上、人同士の触れあいというものは必ず求められますが、身体に触れるという行為は、それをもっとも端的に表しています。

触れる行為は、触れた時の心の状態によって、その意味が添えられます。

心の状態が、手つきや態度など行動となって表れるからですね。

ですから、どのような心で触れるかということが、大切になるわけです。



ちなみに心理学(とくに行動系の)は、心の状態が行動に表れるということを前提に、行動を測定して分析することで、心の謎を知ろうとする学問です。

このような学問的なものによらなくても、私たちは日常的に、もの言い方や態度から相手の心の状態をみていますよね。

誰かがぶつかってきたとき、気づかないでそうなってしまったのなら許すけど、わざとぶつかったなら怒るはずです。

同じ行動をされても、私たちの対応が異なるのは、相手の心の状態に反応しているからでしょう。



私もたまに自宅で、かみさんの治療をしたとき、「扱いが雑っ!!」「こんなんだったら患者さん来ないっ!!」と、よく言われます。

心のスイッチが切れていることを、見透かされているわけですね。



では、どのような心で患者さんに触れることが求められるのでしょうか?

昔の話ですが現場に出て1年目、自費の治療院で働いていた時、患者さんを診るのが怖くて逃げ回っていたことがあります。

自分の順番でも他の先生方に「どうぞ、どうぞ」と譲っていました。

怖いという以外に、自費というプレッシャーから、未熟な自分なんかが受け持っては申し訳ないという気持ちもありました。

歩合制だったので、そのようなことをしては自分の生活が苦しくなるだけなのですが、それでも逃げていたのです。



そんなある日、女性で大ベテランの先生(祖母の年に近いご年齢だったと思います。)につかまってしまい、「ヤル気があるのかっ!!」と、しこたま叱られてしまいました。

自分の気持ちを正直に話すとベテランの先生は 「思いやりの心で診ればいいんだよ」と、やさしく私をたしなめて下さいました。

おことばはありがたかったのですが、それでも当時の私は 「そうはいっても腕(技術)がないと話にならんがな」 と心の中でぼやいていたのでした。



確かに技術がないと話になりません。

愛情はこもっているかもしれないけど、おいしくない料理を出すレストランには行きませんし、親切でも運転が下手なタクシーには乗りたいと思わないでしょう。

プロなら、お金を払うに値する知識や技術、そして必要な判断力を持っているのが当然です。

それには練習しかありません。

当時の私は、逃げたりウジウシ考えたりする暇があったら、先輩にお願いして練習すればよかったのです。



一方で、ベテランの先生がおっしゃっていた、思いやりの心で診るということ。

こちらも正しいことです。

もちろん、そのようなことは当時も頭では理解できたのですが、表面的なものだったように思います。

経験を積んだだけのうなずきが今はありますし、この先、年月を経ればさらに理解は深まるかもしれません。



今、確かだと思えることは心のない技術は根なし草と同じだということ。

医療は「技」に「心」が加わって、人を助ける「術(すべ)」となるだろうと思います。


実際に思いやりの心を持って診たときは、患者さんが私たちに心を開きやすかったり、治療の効果も高いと感じています。



これはプラセボ効果(偽薬効果)とも表現されるものでしょう。

けれどもこのプラセボを、研究目的のために条件を統制する必要があるというのでなければ、医療現場で忌避するのは間違いだと思います。

なぜなら、私たちセラピストが日常の臨床で行うことは、患者さんが治るための手助けをすることだからです。

患者さんにとってプラスになるものなら、医療現場でのプラセボは、むしろ肯定されるべきではないでしょうか。



話はちょっとそれますが、前々から日本語では「医学」と「医療」のふたつの言葉があるのに、なぜ英語は「Medicine」ひとつなのだろうと疑問を持っていました。

それが次の一文と出会ったとき、なるほどと納得しました。

“Medicine is science and healing of art.”



medicineの中には、science(科学)とhealing of art(癒しの芸術)の二つの意味が含まれていたのですね。

ざっくり分けてしまえば、日本語の医学がscienceで、医療がhealing of artになるのではないかと私は理解しています。

scienceとしての医学では除外させる必要があるプラセボも、医療現場でセラピストと患者の交流から生み出される癒しの芸術においては、本物の薬になるなのだろうと思います。



ちょっと力が入ってしまいました。

ここで心構えについてまとめておきましょう。



手技療法を行う心構え、それは握手が示すようにセラピストと患者は対等な関係であるということです。

そして、そのような関係が成り立つためには、セラピスト側の思いやりの心が前提となると考えています。

思いやりの心で握手して患者さんと対等な関係を築き、共に回復に向けて歩いていく。

これが手技療法の、医療の心構えではないでしょうか。




当たり前のことじゃないですかですって? そう、その通り。

でもその当たり前のことを継続して実践し続けるのが、感情の起伏や気分にむらのある、ふつうの人間である私たちにとってたいへん難しいことなのだと思います。

だからこそ心構えとして、いつも肝に銘じておかなければいけないわけですね。

私もかみさんをみるときには、もう少し思いやりの心を持とうと思います。



さて、これまで手技療法の基本は握手であり、それは「力の加え方」「相手の感じ方」「心構え」を表しているということをお伝えしてきました。

仕事が終わり、治療院から5分ほど離れたところにある駐車場まで歩く時間が、私の反省タイムです。

そのとき「今日は一日きちんと握手ができただろうか」という問いかけで一日の仕事を振り返っています。



次回は、このシリーズのまとめ、手技療法全体のなかで基本を整理していきたいと思います。 



手技療法の基本は「握手」その7≪心構えについて-3≫

2012-10-13 20:00:00 | 学生さん・研修中の方のために
前回ご紹介したエピソード、みなさんはどのように感じられましたか?

この記録には、人間の社会から隔てられた環境で育ち、言葉も話すことができない少女たちが、身体的・心理社会的に人間らしくなっていくプロセスが紹介されていますが、その中でマッサージはたいせつな役割を果たしていました。

関節をゆるめるなどマッサージの技術的側面はもちろんですが、私は、スキンシップという言語以前のコミュニケーションによって情緒や感情など心への働きかけ、生命どうしの基本的交流など、触れるということの総合的な意味をこのエピソードは示しているのではないかと思いました。



私も2年ほど前に、このような経験をしたことがあります。

ひどい肩こりの症状で、相談にみえていた女性がいました。

症状は少しずつ改善していたのですが、3回目の施術中に突然、泣き始めてしまいました。



このようなことは、まれにあります。

身体の緊張が除かれると共に、抑えていた感情があふれ出してしまう、そんな現象でしょうか。

手技療法のなかには、身体から心に働きかけることを目的としたテクニックもありますが、私の場合は意図したことではなく、流れの中で自発的にそうなったというだけです。

といっても特別なことではなく、心理カウンセリングの現場でクライアントが、さまざまな感情表現をすることと同じだと思っています。



患者さんが落ち着くまで、しばらく待ってからお話を伺うと、小学生のお子さんが学校でイジメにあっているようなのだが本人が話したがらず、心配でならないとのことでした。

学校にも相談したけれど、はっきりしたことがまだわからないとの返事だったそうです。

このようなときは、お話を聞いてあげることしかできません。

治療をしながら時間の許す限り聞いて差し上げたら、少し気分が楽になったといって帰られました。



しばらく経ったある日、治療院に来てそのまま出かける用事があるからと、お子さんも一緒にいらっしゃいました。

おしゃべりをすると、とても素直なお子さんでしたが、一見したところ決して姿勢がよいとはいえません。

そこで思うところがあってお母さんの治療の後、私も昼休みだったので少し時間をいただきました。

猫背を治そうということで、お子さんの身体の状態を調べ、自宅でお母さんがお子さんに行う手技療法をいくつか教えてあげたのです。



まず私がデモンストレーションを行い、続いてお母さんにやっていただきます。

お子さんに「私と同じようにやっているか、お母さんに教えてあげて」というと、「そんなんじゃ、なかったよ」「お母さんだってはじめてやるんだから」と、親子でああだこうだといいながら練習しています。

このやり取りに私はよい印象を持って、毎晩寝る前にお母さんにエクササイズをしてもらうようにお話して、その日は終えました。



しばらく経ってからお母さんがみえたとき、ご報告をいただきました。

ベッドの上で背中を押さえてあげているとき、お子さんが学校で起こっていることを少しずつ話すようになったこと。

詳しいことがわかってきたので、学校とも連絡を取りあって対応していくことになったこと。

おまけに姿勢も少しずつですがよくなってきたこと。

ひどかった自分の肩こりも、さほど気にならなくなったこと。

それを最後にお母さんはみえなくなりました。

私としては、よい方向に向かったことを願うばかりです。



今回のエピソードで、手技療法が問題の解決に直接役立っているわけではありません。

けれども、私がお母さんの、そして、お母さんがお子さんの心の扉を開くことに手技療法が役立ったのではないかと思っています。

手で触れてスキンシップをとるという行為が、心の内に留まっていたものを外に出すための媒体のひとつとなった。

次への一歩を踏み出すきっかけをつくった、そう表現してもオーバーではないかもしれません。

このエピソードの手が相手の心に働きかけたというところが、シング夫人とアマラ・カマラのエピソードに通じるものもあるのではないかと思います。

触れるという非言語的コミュニケーションによる生命どうしの交流ですね。



これを成功させるためには、セラピスト側に求められるものがあり、それは≪心構え1≫で触れた、患者さんと対等な関係になって共に進んでいくための条件でもあります。

ずいぶん引っぱってきましたが、次回はそのお話です。


手技療法の基本は「握手」その6 ≪心構えについて-2≫

2012-10-06 20:00:00 | 学生さん・研修中の方のために
≪前回からのつづき≫

手技療法を行う上でのセラピストの心構えを示す、歴史上のエピソードがあります。


それは「狼に育てられた子 ~カマラとアマラの養育日記」という野性児の記録の中にありました。


学習や発達を学んだ方は、ご存じかもしれません。


この本は現場に出て3年目のとき、当時住んでいたアパートの近所にあった図書館(東京都練馬区の石神井図書館)でブラブラ歩いているときに偶然見つけました。


表題からも手技療法を思わせるものは何もないですが、何気なく目にとまって手に取り、パラパラとページをめくっていたら目に飛び込んできました。


そのようなことって、時々ありますよね。





さて、その内容です。


1920年、インドで二人の少女が、狼とともに暮らしているところを発見・保護されました。


二人はアマラとカマラと名付けられ、孤児院を運営するシング牧師によって養育されました。


シング牧師は、幼少時に親に捨てられた少女たちが狼に育てられたものと発表し、文明から切り離されて育てられた人間(野生児)の事例として有名な逸話となりました(その信憑性について議論はあります)。





発見当時の年齢は不明でしたが、シング牧師は年少の子が約1歳6ヶ月、年長の子が8歳と推定しました。


はじめの頃、アマラとカマラの行動は狼そのものでした。


膝や腰の関節はかたく、立ち上がったり二足歩行することはできず、四つ足で移動していました。


食べるときは手を使わず、地面に置かれた皿に顔を近づけてなめるようにして口に入れ、真夜中に遠吠えをする以外は声を発しなかったそうです。






シング牧師は、彼女らを人間社会に適応できるよう働きかけるようになります。


その一環として、マッサージ師であったシング牧師の夫人が、アマラとカマラの硬くなった関節などをマッサージしてあげるようになりました。


二人は、はじめ嫌がって怒っていましたが、ことばや動作にあらわれた愛情が理解されたのか、やがて受け入れるようになっていきます。





シング夫人によるマッサージの効果は、パケナム-ウォルシュ主教によって次のように要約されています。


「このマッサージは、熟練し、やさしく、愛情のこもった手で全身にわたって行われ、とくに狼の生活様式によってふつうの人間的発達が妨げられてきた部分、すなわち、腕、手、指、脚、足、足指に注意が払われた。


シング夫人は巧みなマッサージ師であり、カマラが飽きたと思われる時には、いつも、どんな部分の場合でも、マッサージを中止した。


マッサージには、カマラの筋肉を人間として使うために強めたりゆるめたり、彼女をやさしい育ての母親にひきつけ、信頼し、愛するようにさせた、驚くべき効果が認められた(p.108)」






年少のアマラが1921年に亡くなった時、カマラは動揺し不安定になりましたが、マッサージによる愛情のこもった慰めは、そこから回復しているうえで役に立ち、さまざまな関わりを通して、シング牧師夫妻と良好な関係を築いていきます。


その後、カマラは直立二足歩行のための訓練を受けはじめ、やがて初めて2本足で立つことに成功します。


また、少しずつではあるが言葉をしゃべるようになって30ほどの単語を覚え、短い簡単な文も口にすることができるようになりました。


しかし、カマラも1929年に尿毒症によって亡くなってしまいました。





みなさんはこのエピソードから、手技療法の働きについて何か感じられたでしょうか?


ちょっと情報が少なすぎるかもしれませんが、ご自分なりに考えてみてください。


次回、私の感想をお話ししたいと思います。






おかげさまで更新250回!!
おかげさまで手技療法の寺子屋ブログは、今回で250回目の更新になります。
このブログは2008年1月から週1回ペースで始めたので、年が明ければまる5年です。
もともと3日坊主だった私が、ここまで続けて来られたのも、みなさんの応援のおかげです。
ありがとうございます。

ブログという媒体を通して、私がこれまで取り組んできたこと。
それは、「手技療法の技術をできるだけ言葉で表す」ということです。
大まかな手順ではなく、テキスト等であまり触れられていなくても、実践する上で大切なコツやポイントなどを、できるだけ文章化できないものかと取り組んできました。

技術はあくまで自分で身につけていくものであり、練習するしかありません。
だからといって、昔ながらの見て盗め式では習得できる人は限られます。
とくに技術の習得はセンスがものをいうのも確かで、センスが良い人はあっという間に身につけます。
一方で、努力しても一人では難しく、そのままだと行き詰まってしまうけれど、誰かの助けがあれば芽が出てくる人たちもいます。

私は自分が不器用でまわりに手助けしてもらってきたので、行き詰まった後輩たちを放っておけませんでした。
後進ができるだけスムーズに学べるようにしておくのは、先に学んだ者の務めだと思っています。
技術には言葉で表現できない領域があり、言語化は限界があることは承知しています。
けれども、できる限りそれを進めておくこと。
それも、よりイメージしやすいように、私たちが日常で慣れ親しんでいる、身近な言葉で表現できるようにしておくこと。
そのような努力を誰かがやっておかなければいけない、という思いでこれまで続けてきました。
ほんのちょっとした言葉が、気づきやヒントになることもあると信じて。

私の取り組んでいることは、ごく限られたマイナーな領域です。
それでも今では、訪問者数が毎日200名を超え、多い時には週間訪問者数がのべ1700名に届きそうになる週もみられるようになりました。
距離的な問題などで、私と直接会う機会のない方でも、ご覧になって活用していただけるようになっています。
どこかで誰かの役に立っていると思えるのは、とても嬉しいことです。

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