来週の9月2日、開院6周年をむかえます。
ここまでやって来られたのも、多くの方々に支えてきていただいたおかげです。ありがとうございます。
よくいわれることですが、ホントにあっという間の6年でした。
3周年と4周年は記事を書いたのですが、5周年はすっかり忘れてしまうほど、あっという間でした。
「感謝感謝の3周年」
「感謝感謝の4周年」
おかげさまで現在では北海道内・外の多くの方にご利用いただけるようになりました。
なかには、なかなかよくならずに悩み続けた症状が、さいわい回復したことから「神の手だ」と喜んでくださった方もおられます。
「神の手」なんていわれると、もったいなくて困ってしまいますが、つらい症状から開放され、うれしそうな顔してお話される様子を見ていると、こちらまでしあわせになります。
それに正直な気持ちとして、ほめられるというのはいくつになってもうれしいものですね。
しかし、「神の手だ」といわれて浮かれている場合ではありません。
患者さんが「神の手」といいたくなるほど喜ぶということは、それほど悩み苦しんでいたという心の裏返しです。
手技療法が適応となるのは、体性機能障害であり、いわゆる難病や重篤な疾患ではありません。
ただ体性機能障害は、外見上はわからないことも少なくなく、直接生命にかかわるようなことはまずないために、周囲になかなか理解されず深く悩まれる方もいるのです。
そのぶん、よくなったときの喜びも大きさが私たちへの気持ちとして表れるのでしょう。
ところで、症状がなかなかよくならなかったというのは、機能障害が持続していることによって、治るきっかけがつくれなかったということです。
きっかけがつくれなかったというのは、機能障害を処理するアプローチが、まだまだ一般的ではないということです。
手技療法も機能障害に対するアプローチのひとつとして昔からあるものの、現代医療の中で位置づけや役割がはっきり定まらず、周知されてもいません。
これを何とか変えていく必要があります。
手技療法による体性機能障害へのアプローチの仕方は基本的にシンプルです。
(もちろん、複雑に細分化された考え方でアプローチする方法もありますが)
私がやっていることも、ひとことでいえば制限をみつけてリリースする、かたい部分をほぐしているというだけです。
必要に応じて、筋力強化や使い方のアドバイスをしていますが、他に何か奇抜なことをしている訳ではありません。
その患者さん固有の異常を見つけ出すように、細かくていねいにみて、かゆいところに手が届く「孫の手」のような治療を心がけているだけです。
治療の結果、機能障害によって妨げられていた回復力が働き出したら、あとは患者さん自身の力で治っていっています。
つまり「治るべくして治っている」わけです。
(「手技療法にできることは土を耕すことと同じ」もご参照ください。)
「治るべくして治るものを、きちんと治すように」これは、私がお世話になった整形外科医の松本不二生先生からいただいたことばです。
私はいつもこのことばと向き合い、どうすればそれができるのか考えながら仕事をしてきました。
社会的・心理的な要因をはじめ、さまざまな理由が重なって起こっている慢性疼痛など、改善の難しいものも確かにあります。
でも、機能障害さえよくなれば改善されるのに、機会に恵まれず悩んでいる患者さんもたくさんいるはずです。
そのような方たちのためにも、体性機能障害に対する手技療法の有効性を、世の中に伝えていく必要があります。
とにかく、できることから進めていかなければなりません。
私も未熟ながら、最近では講師として手技療法を後進の方にお伝えする機会も増えてきました。
私は、かゆいところに手を届かせるような「孫の手」の技術を持ったセラピストになって欲しいという願いをもって、セミナーにのぞんでいます。
この業界を見渡すと、手技療法に熱心で優秀な方が各地で活躍し、後進を指導して手技療法発展のために尽力されています。
こうした多くの方の熱意が実を結んで、優秀なセラピストが数多く生まれ、治るべきものをきちんと治せるようになれば、より多くの人を助けていくことができます。
そしていつか、体性機能障害の治療にかかわることで、「神の手」ということばが使われなくなったら。
そのとき世の中は、今よりもほんの少しだけよくなっているはずです。
そんな世の中になることを私は夢見ています。
ここまでやって来られたのも、多くの方々に支えてきていただいたおかげです。ありがとうございます。
よくいわれることですが、ホントにあっという間の6年でした。
3周年と4周年は記事を書いたのですが、5周年はすっかり忘れてしまうほど、あっという間でした。
「感謝感謝の3周年」
「感謝感謝の4周年」
おかげさまで現在では北海道内・外の多くの方にご利用いただけるようになりました。
なかには、なかなかよくならずに悩み続けた症状が、さいわい回復したことから「神の手だ」と喜んでくださった方もおられます。
「神の手」なんていわれると、もったいなくて困ってしまいますが、つらい症状から開放され、うれしそうな顔してお話される様子を見ていると、こちらまでしあわせになります。
それに正直な気持ちとして、ほめられるというのはいくつになってもうれしいものですね。
しかし、「神の手だ」といわれて浮かれている場合ではありません。
患者さんが「神の手」といいたくなるほど喜ぶということは、それほど悩み苦しんでいたという心の裏返しです。
手技療法が適応となるのは、体性機能障害であり、いわゆる難病や重篤な疾患ではありません。
ただ体性機能障害は、外見上はわからないことも少なくなく、直接生命にかかわるようなことはまずないために、周囲になかなか理解されず深く悩まれる方もいるのです。
そのぶん、よくなったときの喜びも大きさが私たちへの気持ちとして表れるのでしょう。
ところで、症状がなかなかよくならなかったというのは、機能障害が持続していることによって、治るきっかけがつくれなかったということです。
きっかけがつくれなかったというのは、機能障害を処理するアプローチが、まだまだ一般的ではないということです。
手技療法も機能障害に対するアプローチのひとつとして昔からあるものの、現代医療の中で位置づけや役割がはっきり定まらず、周知されてもいません。
これを何とか変えていく必要があります。
手技療法による体性機能障害へのアプローチの仕方は基本的にシンプルです。
(もちろん、複雑に細分化された考え方でアプローチする方法もありますが)
私がやっていることも、ひとことでいえば制限をみつけてリリースする、かたい部分をほぐしているというだけです。
必要に応じて、筋力強化や使い方のアドバイスをしていますが、他に何か奇抜なことをしている訳ではありません。
その患者さん固有の異常を見つけ出すように、細かくていねいにみて、かゆいところに手が届く「孫の手」のような治療を心がけているだけです。
治療の結果、機能障害によって妨げられていた回復力が働き出したら、あとは患者さん自身の力で治っていっています。
つまり「治るべくして治っている」わけです。
(「手技療法にできることは土を耕すことと同じ」もご参照ください。)
「治るべくして治るものを、きちんと治すように」これは、私がお世話になった整形外科医の松本不二生先生からいただいたことばです。
私はいつもこのことばと向き合い、どうすればそれができるのか考えながら仕事をしてきました。
社会的・心理的な要因をはじめ、さまざまな理由が重なって起こっている慢性疼痛など、改善の難しいものも確かにあります。
でも、機能障害さえよくなれば改善されるのに、機会に恵まれず悩んでいる患者さんもたくさんいるはずです。
そのような方たちのためにも、体性機能障害に対する手技療法の有効性を、世の中に伝えていく必要があります。
とにかく、できることから進めていかなければなりません。
私も未熟ながら、最近では講師として手技療法を後進の方にお伝えする機会も増えてきました。
私は、かゆいところに手を届かせるような「孫の手」の技術を持ったセラピストになって欲しいという願いをもって、セミナーにのぞんでいます。
この業界を見渡すと、手技療法に熱心で優秀な方が各地で活躍し、後進を指導して手技療法発展のために尽力されています。
こうした多くの方の熱意が実を結んで、優秀なセラピストが数多く生まれ、治るべきものをきちんと治せるようになれば、より多くの人を助けていくことができます。
そしていつか、体性機能障害の治療にかかわることで、「神の手」ということばが使われなくなったら。
そのとき世の中は、今よりもほんの少しだけよくなっているはずです。
そんな世の中になることを私は夢見ています。