「手技療法で触診をしている時、どこに意識を置いたらいいのでしょうか?」
そんな質問をいただいたことがありました。
どこに意識を置いて治療しているかは、経験を積んだ治療家でもそれぞれ違うかもしれません。
意識はかたちがハッキリと見れないものですし、私も自分の『意識』を常に意識しているわけではありません。
だから、的確な答えはなかなか難しいところ。
練習を重ねて場数を踏むことはとても大切ですが、指導する側として「とにかく場数を踏め」だけでは芸がありません。
そのため、触診の時の意識を感覚的にイメージしていくための方便として
「車を運転している時の、目の使い方と同じですよ」
とお話ししています。
免許を持っている方なら運転中、進行方向に対して全体を眺めるようにしつつ、視線は近くや遠く、右や左に移動させて、安全を確認しながら運転していると思います。
触診の意識も同じようなものと、わかりやすさを優先してそう喩えています。
言い換えたら「一点だけを見ていると事故る」
「よそ見をしていると事故る」ということ。
『~する』を『~するべからず』としたら、
「一点に留まるべからず」「気を散らすべからず」
そんな感じでしょうか。
スポーツでもきっと同じではないかと思います。
とはいえ車の運転なら乗り始めの頃は、どうしても目の前に集中してしまうもの。
きっと、多くの方が経験していることでしょう。
いきなり全体を見るなんてセンスのある人ならできるかもしれませんが、全員に求めるのはムリがあります。
ふつうは運転に慣れるに従って、視野が広がっていきます。
手技療法でも同じことで、いきなり全体を診るよう意識するのはムリがあるでしょう。
ですから私は触診の基本を伝えるとき、はじめは
「まわりと比べて硬いところ」を意識して触れるようにお話ししています。
これなら慣れない方でも比較的わかりやすいのではないでしょうか。
運転なら目の前を見ている状態です。
次いで、路上に出るようになって道路が混み始めて来たら、2~3台前の車のブレーキランプに注意して運転するでしょう。
触診でも触れたところから、次第に深い部分へと意識を移していきます。
やがて、スピードを出す高速道路に乗るようになったら、視線は遠くを見るようになります。
視線の先と、自分の車の間を走っている他の車との位置関係を大よそ把握しながら運転し、必要に応じて近くにも視線を移します。
触診でも遠くに視線を移すように、さらに深いところに意識を移していきます。
たとえば触れた身体の反対側に意識を置いて、手と意識を置いている反対側との間を感じ取ろうとする。
あるいは、加えた力がどのように伝わっているかを感じ取ろうとする、など。
反対側に意識を置くというと、不思議な感じがするかもしれませんが、わかるかどうかは別にしてそのつもりで診るということ。
不思議と意識を遠くに置いたほうが、近くのものを感じ取りやすいということもあります。
さらに運転に慣れてくると、隣の車線を走っている車が、ウインカーも出さないで車線変更しようとする動きを、はじめの挙動の段階で察知するようになります。
触診でも慣れてくると、離れた部分に違和感を持つようになります。
挙動不審な車に自然と目が行くように、挙動不審な組織???に意識が行く感じですね。
いかがでしょう。
このようにみれば触診の時の意識も、車の運転と同じように段階的に学べばよく、自分の能力に応じて用いればよい、ということがお分かりいただけるでしょうか。
身の丈に応じた臨床を、「わかる」ところから、「できる」ところから、「浅い」ところから行っていけばよいわけですね。
ちなみにちょっとマニアックな話しですが、私が触診時の意識の用い方で勉強になったのは、武人の心法を記した「不動智神妙録」という沢庵和尚の本です。
沢庵和尚は江戸時代の禅僧で、宮本武蔵や柳生宗矩・十兵衛の小説にもよく出て来る方です。
(かくいう私は、ケンカや勝負ごとにはめっぽう弱いのです(^-^; )
技術や発想法というものを学ぶときに、昔の人の本はとても役に立ちました。
興味を持たれた方はググってみてください
そんな質問をいただいたことがありました。
どこに意識を置いて治療しているかは、経験を積んだ治療家でもそれぞれ違うかもしれません。
意識はかたちがハッキリと見れないものですし、私も自分の『意識』を常に意識しているわけではありません。
だから、的確な答えはなかなか難しいところ。
練習を重ねて場数を踏むことはとても大切ですが、指導する側として「とにかく場数を踏め」だけでは芸がありません。
そのため、触診の時の意識を感覚的にイメージしていくための方便として
「車を運転している時の、目の使い方と同じですよ」
とお話ししています。
免許を持っている方なら運転中、進行方向に対して全体を眺めるようにしつつ、視線は近くや遠く、右や左に移動させて、安全を確認しながら運転していると思います。
触診の意識も同じようなものと、わかりやすさを優先してそう喩えています。
言い換えたら「一点だけを見ていると事故る」
「よそ見をしていると事故る」ということ。
『~する』を『~するべからず』としたら、
「一点に留まるべからず」「気を散らすべからず」
そんな感じでしょうか。
スポーツでもきっと同じではないかと思います。
とはいえ車の運転なら乗り始めの頃は、どうしても目の前に集中してしまうもの。
きっと、多くの方が経験していることでしょう。
いきなり全体を見るなんてセンスのある人ならできるかもしれませんが、全員に求めるのはムリがあります。
ふつうは運転に慣れるに従って、視野が広がっていきます。
手技療法でも同じことで、いきなり全体を診るよう意識するのはムリがあるでしょう。
ですから私は触診の基本を伝えるとき、はじめは
「まわりと比べて硬いところ」を意識して触れるようにお話ししています。
これなら慣れない方でも比較的わかりやすいのではないでしょうか。
運転なら目の前を見ている状態です。
次いで、路上に出るようになって道路が混み始めて来たら、2~3台前の車のブレーキランプに注意して運転するでしょう。
触診でも触れたところから、次第に深い部分へと意識を移していきます。
やがて、スピードを出す高速道路に乗るようになったら、視線は遠くを見るようになります。
視線の先と、自分の車の間を走っている他の車との位置関係を大よそ把握しながら運転し、必要に応じて近くにも視線を移します。
触診でも遠くに視線を移すように、さらに深いところに意識を移していきます。
たとえば触れた身体の反対側に意識を置いて、手と意識を置いている反対側との間を感じ取ろうとする。
あるいは、加えた力がどのように伝わっているかを感じ取ろうとする、など。
反対側に意識を置くというと、不思議な感じがするかもしれませんが、わかるかどうかは別にしてそのつもりで診るということ。
不思議と意識を遠くに置いたほうが、近くのものを感じ取りやすいということもあります。
さらに運転に慣れてくると、隣の車線を走っている車が、ウインカーも出さないで車線変更しようとする動きを、はじめの挙動の段階で察知するようになります。
触診でも慣れてくると、離れた部分に違和感を持つようになります。
挙動不審な車に自然と目が行くように、挙動不審な組織???に意識が行く感じですね。
いかがでしょう。
このようにみれば触診の時の意識も、車の運転と同じように段階的に学べばよく、自分の能力に応じて用いればよい、ということがお分かりいただけるでしょうか。
身の丈に応じた臨床を、「わかる」ところから、「できる」ところから、「浅い」ところから行っていけばよいわけですね。
ちなみにちょっとマニアックな話しですが、私が触診時の意識の用い方で勉強になったのは、武人の心法を記した「不動智神妙録」という沢庵和尚の本です。
沢庵和尚は江戸時代の禅僧で、宮本武蔵や柳生宗矩・十兵衛の小説にもよく出て来る方です。
(かくいう私は、ケンカや勝負ごとにはめっぽう弱いのです(^-^; )
技術や発想法というものを学ぶときに、昔の人の本はとても役に立ちました。
興味を持たれた方はググってみてください