前回は、日常生活の中で自分の身体の動きを観察することをお話ししました。
それに加え今は動きだけではなく、感じとっている感覚も観察するようにしています。
ご飯をどのように味わって、胃の中に送っているのか?
トイレでおしっこが尿道を通って、排泄されるときの感じはどのようなものか?
車の運転中は周囲をどのように注意して見ているのか?
お風呂に入った時の、圧迫感をどのように感じているか?
このようにトレーニングしていくことで、味覚が鋭くなってグルメに近づいたり、聴覚が鋭くなって微妙な音が聞き分けられるようになるといったことを期待しているのですが、実感はまだ持てていません。
それでも懲りずに、さらには心の動きが身体にどのような変化を与えるかということも観察しています。
かみさんにひとこと言われてカチンと来た時、身体は怒りによってどのような変化を起こすのか。
時間に追われて焦っているときは?
何かを期待しているときは?
嬉しいとき、悲しいときは?
胸から口にかけての圧迫感や、耳の後ろから頭頂部にかけてのざわつく感じなど、感情とともにさまざまな身体感覚が起こります。
そもそも感情というのはどのように生まれ、どのように消えていくのでしょうか?
感情に浸りきらず、できるだけもう一人の自分が観察しているようにしています。
もちろん、酒席でみんなとワイワイやっているときはすっかり忘れています。
そしてひとりになったり、しらふに戻ったら再び観察します。
まさに生活が実験場、これが活きた学問「活学」というものではないかと思っています。
心を観察していて気づいたことがあります。
それは、自分が意外とつまらないことで不機嫌になっていること。
もちろん私もアラフォーでそれなりの年齢ですから、表には出さないように押し殺しています。
これまでは押し殺すことを無意識にしていましたが、今は自覚しています。
この違いは、なかなか大きいですよ。
余談をもう少し。
誰でも日によって機嫌は変化しているはずです。
それが悪い日もあるでしょう
でもムシの居所が悪いということをはっきり自覚しないまま過ごしているために、ふだんなら何ともないはずなのに、そのときに限ってついつい余計なひとことを言って、ぶつかってしまうということがあるのではないでしょうか。
とくに家族と。
私は自分が少しイライラしていると自覚したら、かみさんに予め「今日は妙にイライラしているみたいや。かんにんやで」と話しています。
すると、かみさんは「ふ~ん」と言うだけですが私の状態をわかっていますし、私も自分の状態がわかっていればコントロールしやすいので、ぶつかることもありません。
これも夫婦生活のちょっとした知恵なのかもしれませんね。
自分の心や体のわずかな変化を察知したら、未然に対処できるわけです。
こうして自分のマイナス面に目をそむけて否定するようなことをせず、冷静に見つめるようにすると、やがて自分のちっぽけさというのが素直に理解できるようになっていきました。
すると、変に肩肘張って生きることが、何だかこっけいに思えるようになります。
ちっぽけだけど、ちっぽけなりに精一杯やっていけばええやないか。
そんな感じで、生きるということも少し楽になった気がしています。
自分を観察することを続けるうちに、ありふれた日常というのはありえないと思えるようにもなってきました。
前回、自分の動きを観察しないともったいないとお話ししましたが、私たちの何気ない動きでも生命の歴史を考えると、何億年もかけて獲得してきたものです。
そう考えると、一回の呼吸、一歩の歩みというのはとても興味深いものになります。
そうこうして心と身体の動きを観察しているうちに、自分の生活から退屈ということがなくなっていきました。
以上ことだけでも大きな収穫だと思っています。
自分を観察することにお金はいりません。
自分の気持ちひとつ、根気だけ。
学びというと、外側の世界に何かを求めるという発想になりやすいかもしれません。
それも大切ですが、ときには自分の内側に広がっている世界に目を向けてみてはいかがでしょう。
内側の世界に目を向けるとは、自分の世界に閉じこもるのではありません。
自分が外の世界をどのように認識しているかを知る、メタ認知を行うこと。
自らの力で新たな発見を見出すことです。
それは誰かに教わることとは違った、大きな学びになります。
教わったことがはじめて腑に落ちて、身につくことと言えるかもしれません。
そうすることであらゆる勉強が、生き方を学ぶということになっていくのではないでしょうか。
受け止め方は人それぞれですが、私はやる価値のあることだと思っています。
この先どのような発見があるか楽しみに、これからも続けていきたいと思っています。
以上が私の勉強法、トレーニング方法です。
みなさんの参考になれば嬉しいです。
さて今回のシリーズは、自分の身体を楽に操作する「楽操」のために、練習で自分の動きを観察するところからはじまり、日常生活での動きの観察、さらには心の観察まで話が広がりました。
ずいぶん広がりましたね。
このシリーズでとにかくお伝えしたかったことは、はじめにお話しした、私たちが仕事を続ける上で覚えなければいけないことは、自分自身の身体を傷めないように守り方を身につけるということ。
そのためには「楽操」が大切ということ。
楽操をするから正確な評価と的確な治療を、長期間反復して行うことができ、患者さんの力になれ、自分たちも元気に暮らしていけるのだということです。
楽操のポイントは、腰(体幹・腹)が動いて手がついていくということ。
私がセラピストの動きの基本と思っている「押す・引く・まわす」というのは、そのポイントに則って行われます。
そして「押す・引く・まわす」の操作によって、治療の実践である「触れる・感じる・動かす」が成り立っているわけです。
つながりを理解していただけたでしょうか。
ところでこの「楽操」、去年の暮れに開催した手技療法の寺子屋セミナーで、ドヤ顔しながらホワイトボードに書いたのですが、一瞬シーンとなった後、笑われてしまいました。
(笑われたけど、理解してくれている仲間達なんですよ)
これからも細々と、まずはその必要性を感じている方たちに伝えていくことができたらと思っています。
≪おまけの話・・・FBより≫
健康雑誌の原稿を読み直していたとき、ふと思い出したことがありました。
私は患者さんへのセルフケアとして、テニスボールやカサ、そば打ち棒など身近な道具を使って筋肉の緊張をやわらげる方法を主に紹介していますが、以前は筋力トレーニングもよくお話しをしていました。
変わったのは6年ほど前に経験した出来事がきっかけです。
腰痛を訴えて来院された育児中の女性に、体幹の筋力トレーニングをお話していたときのこと。
突然、患者さんが泣き出してしまいました。
私は普通にお話ししていたつもりだったので少し驚いたのですが、患者さんはこうこぼされました。
「毎日疲れきって、トレーニングをする気力もありません」
仕事に子育てと、責任や義務で追い詰められていたところへ、さらに私が負担を強いるようなことをお話したので、せきを切ったように涙があふれてしまったのでした。
私は反省しました。
トレーニングをすること自体は間違っていません。
しかしそれを行うには、あるていど心のエネルギーが必要になります。
ぎりぎりの状態で過ごしている方に対して、新たに負担を強いるのは、さらなるストレスを与えてしまいます。
追い詰められた人に、正しさを押し付けることほど相手を傷つけるものはありません。
そもそも私自身が運動好きではなく、とくに筋トレは嫌いなほうなのに、それをアドバイスするというのは説得力がありません。
自分もそれまで、後ろ暗い気持ちでお話しをしていたことに気がつきました。
振り返ってみると治療院にみえる方の中には、仕事や家庭のことに追われ、肉体的にも精神的にも疲れきって、身体の痛みを訴えている方もいらっしゃいます。
運動好きな方、ヤル気のある方ばかりならともかく、私と同じようにそうではない方もおられます。
パーソナリティの違いもあるでしょう。
だからといって、手をこまねいているわけにはいきません。
このようなことがあってから、運動嫌いでも続けることができ、疲れきっていても実行しやすいエクササイズを工夫するようになりました。
カサなどを使ってコリをほぐすというだけというシンプルなものですが、これを取り入れてから、疲れていても出来るということで、セルフケアを実行していただく確率がずいぶん高くなっていきました。
コリをほぐすことよって症状が軽くなってくると、気持ちに余裕が出て来るので、アクティブなエクササイズにもつなげやすくなりました。
ヤル気が出てきた方には運動を勧めていくわけですが、なかにはすっかりはまってしまい、ジム通いをして数ヵ月後、ムキムキになってオーバートレーニングの相談でみえる方もいました。
このようにコリをほぐす(今風ならトリガーポイントをリリースするなどという言い方でしょうか)ことは、それだけで適応できるレベルになる方もいますし、いきなり運動というのは難しい方へのワンステップ、段差解消の手段としても使うことができると思っています。
元気で明るくポジティブに、健康のためにも運動を、それらは前向きで素晴らしいことなのですが、わかっていてもできない方もなかにはいらっしゃいます。
そのような方たちが、少しでも良い状態で過ごすためにどうすればよいか。
ベストが無理ならベターを重ねて、ホームランが打てなくてもヒットでつないで、そのような感じで相手の様子を見ながら、少しずつ積み重ねていくしかないと思っています。
決まった答えなどありませんが、確かなことは相手と同じ目線に立ったところからスタートしないと、変えるのは難しいということ。
相手と向き合うというよりも、横に並んで一緒に散歩するようなつもりで歩いていると、そのうち落ち着きどころが見えてくる。
そんな気がしています。
<エクササイズについては、こちらをご参照ください「身近な道具を使った コリとり体操」>
それに加え今は動きだけではなく、感じとっている感覚も観察するようにしています。
ご飯をどのように味わって、胃の中に送っているのか?
トイレでおしっこが尿道を通って、排泄されるときの感じはどのようなものか?
車の運転中は周囲をどのように注意して見ているのか?
お風呂に入った時の、圧迫感をどのように感じているか?
このようにトレーニングしていくことで、味覚が鋭くなってグルメに近づいたり、聴覚が鋭くなって微妙な音が聞き分けられるようになるといったことを期待しているのですが、実感はまだ持てていません。
それでも懲りずに、さらには心の動きが身体にどのような変化を与えるかということも観察しています。
かみさんにひとこと言われてカチンと来た時、身体は怒りによってどのような変化を起こすのか。
時間に追われて焦っているときは?
何かを期待しているときは?
嬉しいとき、悲しいときは?
胸から口にかけての圧迫感や、耳の後ろから頭頂部にかけてのざわつく感じなど、感情とともにさまざまな身体感覚が起こります。
そもそも感情というのはどのように生まれ、どのように消えていくのでしょうか?
感情に浸りきらず、できるだけもう一人の自分が観察しているようにしています。
もちろん、酒席でみんなとワイワイやっているときはすっかり忘れています。
そしてひとりになったり、しらふに戻ったら再び観察します。
まさに生活が実験場、これが活きた学問「活学」というものではないかと思っています。
心を観察していて気づいたことがあります。
それは、自分が意外とつまらないことで不機嫌になっていること。
もちろん私もアラフォーでそれなりの年齢ですから、表には出さないように押し殺しています。
これまでは押し殺すことを無意識にしていましたが、今は自覚しています。
この違いは、なかなか大きいですよ。
余談をもう少し。
誰でも日によって機嫌は変化しているはずです。
それが悪い日もあるでしょう
でもムシの居所が悪いということをはっきり自覚しないまま過ごしているために、ふだんなら何ともないはずなのに、そのときに限ってついつい余計なひとことを言って、ぶつかってしまうということがあるのではないでしょうか。
とくに家族と。
私は自分が少しイライラしていると自覚したら、かみさんに予め「今日は妙にイライラしているみたいや。かんにんやで」と話しています。
すると、かみさんは「ふ~ん」と言うだけですが私の状態をわかっていますし、私も自分の状態がわかっていればコントロールしやすいので、ぶつかることもありません。
これも夫婦生活のちょっとした知恵なのかもしれませんね。
自分の心や体のわずかな変化を察知したら、未然に対処できるわけです。
こうして自分のマイナス面に目をそむけて否定するようなことをせず、冷静に見つめるようにすると、やがて自分のちっぽけさというのが素直に理解できるようになっていきました。
すると、変に肩肘張って生きることが、何だかこっけいに思えるようになります。
ちっぽけだけど、ちっぽけなりに精一杯やっていけばええやないか。
そんな感じで、生きるということも少し楽になった気がしています。
自分を観察することを続けるうちに、ありふれた日常というのはありえないと思えるようにもなってきました。
前回、自分の動きを観察しないともったいないとお話ししましたが、私たちの何気ない動きでも生命の歴史を考えると、何億年もかけて獲得してきたものです。
そう考えると、一回の呼吸、一歩の歩みというのはとても興味深いものになります。
そうこうして心と身体の動きを観察しているうちに、自分の生活から退屈ということがなくなっていきました。
以上ことだけでも大きな収穫だと思っています。
自分を観察することにお金はいりません。
自分の気持ちひとつ、根気だけ。
学びというと、外側の世界に何かを求めるという発想になりやすいかもしれません。
それも大切ですが、ときには自分の内側に広がっている世界に目を向けてみてはいかがでしょう。
内側の世界に目を向けるとは、自分の世界に閉じこもるのではありません。
自分が外の世界をどのように認識しているかを知る、メタ認知を行うこと。
自らの力で新たな発見を見出すことです。
それは誰かに教わることとは違った、大きな学びになります。
教わったことがはじめて腑に落ちて、身につくことと言えるかもしれません。
そうすることであらゆる勉強が、生き方を学ぶということになっていくのではないでしょうか。
受け止め方は人それぞれですが、私はやる価値のあることだと思っています。
この先どのような発見があるか楽しみに、これからも続けていきたいと思っています。
以上が私の勉強法、トレーニング方法です。
みなさんの参考になれば嬉しいです。
さて今回のシリーズは、自分の身体を楽に操作する「楽操」のために、練習で自分の動きを観察するところからはじまり、日常生活での動きの観察、さらには心の観察まで話が広がりました。
ずいぶん広がりましたね。
このシリーズでとにかくお伝えしたかったことは、はじめにお話しした、私たちが仕事を続ける上で覚えなければいけないことは、自分自身の身体を傷めないように守り方を身につけるということ。
そのためには「楽操」が大切ということ。
楽操をするから正確な評価と的確な治療を、長期間反復して行うことができ、患者さんの力になれ、自分たちも元気に暮らしていけるのだということです。
楽操のポイントは、腰(体幹・腹)が動いて手がついていくということ。
私がセラピストの動きの基本と思っている「押す・引く・まわす」というのは、そのポイントに則って行われます。
そして「押す・引く・まわす」の操作によって、治療の実践である「触れる・感じる・動かす」が成り立っているわけです。
つながりを理解していただけたでしょうか。
ところでこの「楽操」、去年の暮れに開催した手技療法の寺子屋セミナーで、ドヤ顔しながらホワイトボードに書いたのですが、一瞬シーンとなった後、笑われてしまいました。
(笑われたけど、理解してくれている仲間達なんですよ)
これからも細々と、まずはその必要性を感じている方たちに伝えていくことができたらと思っています。
≪おまけの話・・・FBより≫
健康雑誌の原稿を読み直していたとき、ふと思い出したことがありました。
私は患者さんへのセルフケアとして、テニスボールやカサ、そば打ち棒など身近な道具を使って筋肉の緊張をやわらげる方法を主に紹介していますが、以前は筋力トレーニングもよくお話しをしていました。
変わったのは6年ほど前に経験した出来事がきっかけです。
腰痛を訴えて来院された育児中の女性に、体幹の筋力トレーニングをお話していたときのこと。
突然、患者さんが泣き出してしまいました。
私は普通にお話ししていたつもりだったので少し驚いたのですが、患者さんはこうこぼされました。
「毎日疲れきって、トレーニングをする気力もありません」
仕事に子育てと、責任や義務で追い詰められていたところへ、さらに私が負担を強いるようなことをお話したので、せきを切ったように涙があふれてしまったのでした。
私は反省しました。
トレーニングをすること自体は間違っていません。
しかしそれを行うには、あるていど心のエネルギーが必要になります。
ぎりぎりの状態で過ごしている方に対して、新たに負担を強いるのは、さらなるストレスを与えてしまいます。
追い詰められた人に、正しさを押し付けることほど相手を傷つけるものはありません。
そもそも私自身が運動好きではなく、とくに筋トレは嫌いなほうなのに、それをアドバイスするというのは説得力がありません。
自分もそれまで、後ろ暗い気持ちでお話しをしていたことに気がつきました。
振り返ってみると治療院にみえる方の中には、仕事や家庭のことに追われ、肉体的にも精神的にも疲れきって、身体の痛みを訴えている方もいらっしゃいます。
運動好きな方、ヤル気のある方ばかりならともかく、私と同じようにそうではない方もおられます。
パーソナリティの違いもあるでしょう。
だからといって、手をこまねいているわけにはいきません。
このようなことがあってから、運動嫌いでも続けることができ、疲れきっていても実行しやすいエクササイズを工夫するようになりました。
カサなどを使ってコリをほぐすというだけというシンプルなものですが、これを取り入れてから、疲れていても出来るということで、セルフケアを実行していただく確率がずいぶん高くなっていきました。
コリをほぐすことよって症状が軽くなってくると、気持ちに余裕が出て来るので、アクティブなエクササイズにもつなげやすくなりました。
ヤル気が出てきた方には運動を勧めていくわけですが、なかにはすっかりはまってしまい、ジム通いをして数ヵ月後、ムキムキになってオーバートレーニングの相談でみえる方もいました。
このようにコリをほぐす(今風ならトリガーポイントをリリースするなどという言い方でしょうか)ことは、それだけで適応できるレベルになる方もいますし、いきなり運動というのは難しい方へのワンステップ、段差解消の手段としても使うことができると思っています。
元気で明るくポジティブに、健康のためにも運動を、それらは前向きで素晴らしいことなのですが、わかっていてもできない方もなかにはいらっしゃいます。
そのような方たちが、少しでも良い状態で過ごすためにどうすればよいか。
ベストが無理ならベターを重ねて、ホームランが打てなくてもヒットでつないで、そのような感じで相手の様子を見ながら、少しずつ積み重ねていくしかないと思っています。
決まった答えなどありませんが、確かなことは相手と同じ目線に立ったところからスタートしないと、変えるのは難しいということ。
相手と向き合うというよりも、横に並んで一緒に散歩するようなつもりで歩いていると、そのうち落ち着きどころが見えてくる。
そんな気がしています。
<エクササイズについては、こちらをご参照ください「身近な道具を使った コリとり体操」>
セラピストと患者さんは、一緒にダンス踊ってるようなものだと思います。
はじめのうちはセラピストはリードする必要がありますが、焦ってパートナーの足を踏んづけてしまっていることもありますよね。