「基本指圧」に憧れて ― 村岡曜子のブログ

我が国固有の指圧を広く浸透させ、社会の保健と福祉の増進に寄与したい。

江戸の粋が今に残る 「小江戸川越」 の街

2008年08月28日 | 分類なし
 「小江戸川越」の名前の由来、前から気になっていましたので、川越シルバーガイドの大谷さんに聞いてみました。興味深い内容でしたし、地元の人でもちゃんと知ってるとはかぎらないでしょうから、簡単に書いてみようと思います。  

  かつては「小江戸川越」ではなく、「江戸の母川越」と言われたという説があるそうです。これは、当時川越から江戸にかなりの食糧を送り込んでいたことから、そう呼ばれていたといいます。 また、太田道灌が川越城を造った後に江戸城を造ったそうで、江戸城を守るために、川越の日枝神社から赤坂の山王神社に分神したといいます。 
  そんなことからも江戸の母川越と呼ばれていた時期があるようです。  

  江戸は栄え100万人の大都会、活気に溢れた街になりました。いろいろな流行もたくさん生まれていたようです。川越からは新河岸川を下り、荒川を通って花川戸(浅草)や千住の河岸(かし)へ、そうとうな数の舟が往来していたといいます。 今日江戸で起きた事件は、明日には川越の人達が知ってるという状況だったそうです。江戸で流行ったものは、即座に川越でも流行ったといいます。  

  そんなつながりからか、言葉の響きも小江戸のほうがよいためか、いつとはなしに小江戸川越と呼ばれるようになりました。  

  川越には、現在も30件ほど昔のままに保存されている「蔵造り」の街並みがあります。独特の雰囲気をかもしていることから近年観光客が増え、今では年間500~600万人ほど訪れるようになりました。  
  江戸にあったが今はもうなくなってしまった、という山車(だし)の様式が、今も川越の山車に残っているそうです。またそもそも普通蔵の壁は、なまこ壁といって白漆喰で造るため白いのですが、川越の蔵造りの壁は黒漆喰で作っているため黒いのです。黒という色は江戸の「粋」を示すそうで、これもその影響だそうです。  

  また喜多院には、家光誕生の間と春日の局の化粧の間が江戸城より移され、保存されています。江戸城の一部を、直に見ることができるのです。  

  まだまだ挙げればたくさんの理由があるようですが、これらが小江戸川越の名前の由来です。 
  もっともこの呼び名が一般的になり、全国区になったのは、今の観光ブームからだということです。江戸の雰囲気が今も残る小江戸川越へ、ぜひ一度訪れてみてください。時を遡(さかのぼ)り、江戸の「粋」を感じていただけること請け合いです。
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