「基本指圧」に憧れて ― 村岡曜子のブログ

我が国固有の指圧を広く浸透させ、社会の保健と福祉の増進に寄与したい。

「裁判員」制度は無理、せいぜい「陪審員」まで?

2008年07月21日 | 分類なし
  平成21年5月21日から、いよいよ裁判員制度が始まります。裁判員制度とは、地方裁判所で行われる刑事裁判に国民を参加させ、被告人が有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑にするかを裁判官と一緒に決める制度です。 
  対象となる事件は「殺人」「強盗致死傷」「傷害致死」「危険運転致死」「現住建造物等放火」「身代金目的誘拐」「保護責任者遺棄致死」などかなりの重罪です。 
  すでに決定されたことではありますが、皆さんはこの制度をどう考えていらっしゃいますか。  

  これは、アメリカなどで行われている陪審員制度とは根本的に異なります。陪審員制度は審議により評決(意見)を答申し、評決が有罪ならそれに基づき、今度は裁判官が量刑を決定します。陪審員は「有罪か無罪か」を決定するだけで、「量刑」を決定するのはあくまでも裁判官なのです。 
  日本でも陪審裁判が行われたことがあります。昭和3年から同18年まで、一定以上の税金を納める30歳以上の男性が陪審員に選ばれ、484件の裁判が行われたといいますが、18年4月に施行が停止されました。  

  今回の制度は、陪審員ではなく裁判員です。有罪か無罪かの決定に参加し、量刑に対する裁判員の意見も、裁判官と同じ重みを持つというのです。  
  それでは、法律を知らない人は裁判員になれないのではないでしょうか。法律を知らなくて、どうして「死刑」「懲役○年」などと判断できるのでしょう。 
  実は「裁判員の仕事に必要な『法律に関する知識』や『刑事裁判の手続』については、裁判官が丁寧にご説明します」ということなのです。それでは裁判官の負担が増えるだけで、裁判の円滑進行に逆行するでしょう。また、指導に当たった裁判官の意見を裁判員に押し付けることになる、と私は思うのですがいかがでしょうか。  

  しかも法律に無知な素人が参加して、裁判の質が低下する恐れはないのでしょうか。裁判に対する世間の信頼を失う結果にならないのでしょうか。いろいろ不安が付きまといます。  

  それと今ひとつ、日本の民主主義や自由・平等意識の成り立ちを見るとよく分かりますが、これらは日本人が自らの血と汗で獲得したものではなく、「お上(かみ)から与えられた」ものなのです。 
  制度の施行を迎えるに当たっても、アメリカ国民が「自分らの手で正しく裁こう」としているのとは違い、お上に与えられた任務をイヤイヤ果たす、という考えが大勢(たいせい)を占めているようです。  

  日本国民の感情としても、「素人が裁判官の真似をするより、専門家(裁判官)に任せたほうが確かだ」という意識が強いでしょう。法律の素人を任命するのですから、せいぜい陪審員として、「有罪か無罪か」を決めさせるだけで十分ではないですか。裁判員として「量刑」まで、というのはとても無理だと思います。  
  しかも今回のシステムは、「やむを得ない理由」がなければ辞退することができません。裁判所が裁判員の辞任を認めない限り、裁判員は裁判に出席する義務があります。もし裁判所に出頭しない場合には、10万円以下の過料の制裁を受けることがあるというのです。  

  大まかですが、以上のような理由で、私はどうしてもこの制度に賛成できません。皆様はいかがでしょうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする