爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

早稲田~牛込柳町、漱石の足跡を巡る散歩

2018-11-17 17:01:31 | 日記

今月の「退職者の会:日帰り散歩」は、夏目漱石の足跡を巡り早稲田~牛込柳町を散歩する。今回のコースは7年前に散歩して以来の2度目のコースとのことであるが、今回は短縮パージョンで企画してくれた。私にとっては、この一帯は初めてのため楽しみなコースでもある。
東京メトロ「早稲田駅」で下車し、早稲田に来たからには早稲田大学にと大学に向かう。校内に入っても大学の敷地内という感じがしない、よく欧米では街と大学が一体化しているようで、日本の大学の多くが門と塀に囲まれているという閉鎖的なイメージはない。古くはこの地は低地で水田地帯であった。早稲田大学はこの地名をとったものである。早稲田大学は1882年(明治15年)に東京専門学校で開校し、1902年(明治35年)に早稲田大学に改称された。漱石は、明治25年から28年まで講師をつとめた。

早稲田大学を離れて「早稲田駅」からも鮮やかな鳥居が見えた「穴八幡宮」に向かう。変わっている神社名であるが、これは1641年に「宮守の庵」を造るため山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れ、以来、「穴八幡宮」と呼ばれている。その話から徳川幕府の庇護を受け、流鏑馬の行事が行われた。江戸庶民からも信仰を集め虫封じの祈祷は有名、漱石夫人・鏡子が漱石の虫封じにお参りした。冬至の「一陽来復」のお守りでも知られる、ま
た、商売繁盛・金運アップにご利益があると言われている。
※一陽来復とは、冬が終わり春が来ること、新年がくること、。悪いことが続いた後、幸運に向かっていくこと。

穴八幡宮の隣にあるのが放生寺である。1641年に穴八幡宮の別当寺として神社の隣に創建され、神仏分離により独立した。神社と同じで「虫封じ」や「一陽来復」が授与できる。
また、大菩薩のお堂には、草履の絵馬がぶら下がっていました。腰痛平癒・健脚祈願に御利益があると評判のお寺でもあります。裏手には日本基督教団もあり神道、仏教、キリスト教がある不思議な一角でもあった。

放生寺から早稲田駅の方向に戻り途中「夏目坂」に進む。その名のとおり夏目漱石の父でこのあたりの名主であった「夏目小兵衛直克」が、この坂に自分の姓をつけて呼んでいたと漱石の随筆に書かれていたとのことである。坂道を上り「誓閑寺」に入る、漱石にとって幼いころの誓閑寺の鐘の音が思い出のようで、随筆「硝子戸の中」で誓閑寺のカンカン鳴る鐘の音を。「いつでも私の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい私の気分を寒くした」と書いており、幹事のMさんの説明では夏目家は子どもが多く漱石は里子に出されるなど不遇な面があったと。なお、梵鐘は1682年に近在の住民の寄進による区内最古の物である。
夏目漱石誕生の地は分かりにくく、夏目坂の外食チェーン店の前にありました。誕生の石碑・解説板・句碑が猫の額のようなところにありました、夏目家も買い求めたろうと思われる、隣の老舗の酒屋「小倉屋」は堀部安兵衛が決闘に向かう前に一杯やったというお店との事。

この後、来迎寺と感通寺に立ち寄る。
来迎寺は、山門を入って左手に「庚申塔」がありました。他の庚申塔には、青面金剛神が刻まれているが、ここのは無く三猿と文字が刻まれていました。
感通寺は、松平越後守の下屋敷の跡だと言われています。境内にはいろんなものがあり、人類平和を願う「さざれ石」、毘沙門天堂、その脇には「竹駒稲荷尊」のお堂、昭和20年の空襲で亡くなられた町内300人あまりの慰霊観音像がありました。

漱石の足跡を巡る散歩も最後は、終焉の地である漱石山房記念館です。開館1周年の新しい記念館である。
夏目漱石は、晩年の9年間を「漱石山房」と呼ばれた早稲田南町の家で暮らしました。家は、和洋折衷でベランダがあり、庭には熱帯性の「芭蕉の木」があったりモダンな家だったようです。漱石は教職を退職し東京朝日新聞に専属作家として勤め、この地にて「三四郎」「こゝろ」「道草」「彼岸過迄」など数々の名作を世に送り出しました。漱石は、多くの文人らに慕われ週1回「木曜会」と呼ばれる文学サロンが客間で開かれました、漱石の人間味溢れる人柄があらわれています。
訪れた時は、漱石の書斎の再現展示、作品、書簡、スケッチ等が展示されていました。
展示パネルの中で、感銘を受けた内容があったので紹介します。
「私の個人主義」のテーマで大正3年学習院講演
『「個人主義」は「国家主義」に優先するものだとし、その「個人主義」とは自分中心の考え方ではなく、自己の個性の発展と同時に他者の個性を尊重すること、自己の権利や金力を行使するならば付帯する義務や責任も全うすることで成立するものだと述べている、漱石晩年の心境がうかがえる講演である』
漱石の友人の展示パネルの中に私の妻の親戚筋にあたる「狩野享吉」が展示されているのには驚いた、漱石とは帝国大学時代からの友人で漱石の葬儀では友人代表で弔辞を読んだ。
1916年(大正5年)12月9日に49歳で生涯を閉じた、

この付近を歩いていると新宿区は、寺と坂が多いと感じる、新宿駅前から想像つかない新宿もあった。 

【その他のPhoto】

 

 

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