爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

物流博物館と南極観測船「宗谷」を見学

2015-08-01 10:09:48 | 日記
毎日、熱中症の報道される中、散歩を兼ねて比較的交通の便の良い「物流博物館」と「船の科学館」を訪れた。品川駅の高輪口から「柘榴坂」を上がり「グランドプリンスホテル新高輪」の前のモダンな「カトリック教会」の裏に「物流博物館」がある。「カトリック教会の歩道側に碑があった、江戸時代のキリシタン迫害政策の中、大虐殺で殉教(田町の札の辻付近)した方々の顕彰の碑でした。
    
物流博物館は、パンフレットによると運営主体が「公益財団法人 利用運送振興会」となっているが、前身は日本通運の「通運史料室」であり、日本通運が全面協力している。
日本通運は、明治5年に宿場の伝馬・助郷の代替新制度として発足し、社名を内国通運、国際通運、日本通運(特殊会社)と変遷してきた。
 物流を知る上で、江戸時代の宿場制度を知る必要がある。日本の宿場制度は、中国の「駅家」制度から導入したもので、宿場には、馬や人足が置かれ手紙や荷物を運ぶ役割を果たしたが、輸送はリレー形式で隣の宿場まである、スポーツの「駅伝」はここからきている。その他、水運もあり、江戸時代には物流には大きな役割を果たしてきたが、明治時代に入り鉄道網の整備により物流形態が大きく変貌した。輸送手段により物流は、大きく変わるが、20世紀最大の発明品の一つに「コンテナ」がある。
中学生の頃か、コンテナ輸送の特徴である「Door to Door」という言葉が妙に記憶に残っている。会社勤めしていた頃、小口貨物も方面別に混載コンテナで輸送した事があり、コスト面での効果は絶大であった。
コンテナ輸送は、新しい輸送形態ではなく、日本では昭和6年には一部利用されており、外国では、1780年代にはコンテナらしき型は存在し、1830年代には鉄道・荷車・船の積み替えができる木製コンテナが運用されていた。国際的に広まったのは、アメリカ運送業者のマルコム・マクリーンの力による。コスト削減と交通渋滞回避から沿岸輸送に目をつけ、陸上海上輸送の兼業禁止や、港湾労働者組合の反対の中、実現し、船会社を次々に買収し、戦争での輸送に利潤を上げ、世界最初のコンテナ船を就航する大手海運会社であるシーランドを築きあげた。
物流博物館には、江戸時代から現代までの物流の歴史がわかるようビデオ・ジオラマ・体験コーナーなどがある。


帰り品川駅近くの秋田県のアンテナショップに立ち寄る、あきた美彩館は、2度目であるが、店内奥に飲食スペースがあったが、前に来たときは無かったと思ったが、近頃こうした形態がアンテナショップに多くなった。

もう一つの見学先のため高輪口から港南口へ出る、都バスにて品川駅から「船の科学館」に向かう、お台場は、姉に言わせると子どもの頃はよく遠足で来たとの事、昔は鈴ヶ森からお台場まで徒歩遠足コースなのだろうが、今では埋め立てや高層ビルが建ち昔の面影は無い。「船の科学館」前に本館展示中止の表示が・・・南極観測船「宗谷」だけの展示となっている。「宗谷」に近づくと横断幕に「不可能を可能にする 強運と奇跡の船”宗谷”」とある、何が強運と奇跡の船なのか見学記念カードの裏に、アメリカ潜水艦の魚雷が不発、トラック島大空襲で奇跡の生還他が記述してあった、乗船してみるとこんな船で南極まで行ったのか!!1956(昭和31)年に南極観測船として任務に就くが何しろ建造したのか1938(昭和13)年である、海軍の特務艦であったり、引き揚げ船であったり、海上保安庁の補給艦であったり、昭和の歴史を積んできた船で昭和世代にはノスタルジアを感じる。


本館が展示中止のため見学が早めに終わったため、近隣の「日本科学未来館」にでも寄ろうかと思ったが暑さのため断念し帰る事に・・・

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