爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

母が姉と遊びに行った神田明神

2014-05-16 08:44:06 | 日記
 亡くなった母と登代子叔母さん、静子伯母さんの3人から子どもの頃の話を聞くことが無かったが、唯一、3人姉妹で呉服橋から神田明神に遊びに行った話を登代子叔母さんから聞いていた事がある。母が明治末期の生まれだから大正時代の話だろう、往復5kmの道のりで帰りは結局、登代子叔母さんにおんぶされて帰ってきた。母は記憶には無いらしいが、登代子叔母さんは、よほど大変だったのだろう私に話してくれた。
今では歩こうとは思わないが、今回、跡をたどってみた。

現在の地図と大正時代の地図を参考にしたが、道路そのものは大きな変わった所は無い、外堀通り・本郷通りを行くことに、呉服橋を通り常盤橋、右に日本銀行、竜閑橋、鎌倉橋、神田橋で右折する、

しばらく歩くと「お茶の水駅」が見えてくる。左手に「ニコライ堂」のド-ム屋根が見える、ニコライ堂は通称でロシア人修道司祭ニコライにちなんでいる、正式には「東京復活大聖堂」という、日本で初の本格的なビザンティン様式で最大の教会建築と言われる。1891年に竣工、高台に建築したため、独特の景観であった。「御茶ノ水駅」脇の「聖橋」を渡り右手の湯島聖堂に立ち寄る。この「聖橋」は、震災復興事業の橋梁で、ニコライ堂と湯島聖堂を結ぶ事から「聖橋」と名付けられた。
湯島聖堂は、5代将軍綱吉に建てられた聖堂で、本来は「孔子廟」である。もともとは林羅山が私邸内に建てたもので、林家の学問所も当地に移転している。学問所があった関係で「日本の学校教育発祥の地」ともなっている。

裏手になるのが目的地「神田明神」だ。 正式名称は「神田神社」で神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内・旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。歴史は古く730年に武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が大己貴命を祖神として祀ったのが始まりと言われる。「神田明神」の神田祭は、日枝神社(山王祭)・富岡八幡宮(深川祭)と並んで江戸三大祭りと言われる。この3ヶ所とも日本橋地域を氏子に持っている。子ども3人であっちのお祭り、こっちのお祭りと、娯楽の少ない時代に出かけたのだろう。江戸三大祭りについては「御輿深川、山車神田、だだっ広いが山王様」と謳われた。神田祭は当時は山車で有名だったが路面電車、電柱での支障、震災、戦災で山車の焼失などで現在の御輿が主となった。子どもにとっては、御輿より山車の方が面白いかもしれない。
お参りした日は、表千家の献茶式(崇敬の心をもって神仏や御霊にお茶をお供えする儀式)が行われ、大きいテントが設置されていた。

神田明神を下ると秋葉原の電気街である、古地図に母の学校が表記されていたので万世橋方面に、かつての万世橋駅が外は「レトロ」中は「モダン」に変貌。

さらに神田川下り「和泉橋」に、この辺に「日本橋高等女学校」あったが、もちろん今は無い。馬喰町に日本橋女学館中学・高等学校があるが、そこに移転したのか?戦争末期に陸軍戸山学校が日本橋高等女学校へ移転し終戦を向かえたようだ。

秋葉原付近は、交通の便が昔から良く古い建物もあるがオフィス街も多く都心の一等地で、それだけ戦後の移り変わりがあったのだろう。
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