爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座9 明治日本が夢見た東北開発 ~東北の三大土木遺産が語る国家プロジェクト~を聞いて

2022-03-21 21:08:36 | 日記

岩倉使節団でアメリカ合衆国・ヨーロッパ諸国を調査・交渉してきた一員の内務卿・大久保利通が主導し、富国強兵・殖産興業の一環として交通網の整備を基盤とする東北開発構想があり工事された。社団法人土木学会が、日本国内の歴史的建造物のうち土木構造物について、保存に資することを目的として「選奨土木遺産」とし認定し顕彰した。「東北の三大土木遺産」に着目し、この国家プロジェクトを地形と土木技術、当時の社会背景からとらえ直す。


講師は、東北土木遺産研究所 所長 後藤 光亀氏です。

後藤氏は、三大土木遺産として「野蒜築港」、「安積疏水」、「万世大路」を上げているが、安積疎水は聞いという記憶があるが、他は初めて聞く。


Part1 野蒜築港(のびるちっこう) ~水と砂のものがたりと共に~

宮城県東松島市の鳴瀬川河口部に、レンガ造りの橋脚が残る「野蒜築港跡」である。日本一長い運河群や舟運起点の石井閘門(いしいこうもん)などを含め土木遺産として認定されている。


明治の三大築港は、福井県三国港、熊本県三角港、宮城県の野蒜築港と言われ、野蒜築港は東北開発の扇のかなめで大久保利通が強く推し進め、石井省一郎・内務省土木局長に調査を依頼し、オランダ人ドールンが調査、現地では早川智寛、黒澤敬徳が関わる。


日本の近代化を急務とする大久保は、野蒜築港を東北各地を結ぶ交通網構想の舟運拠点である。しいては中央集権化、殖産興業を基盤とした富国強兵のための事業に着手した。
□東北開発構想□
〇華士族の救済・開墾と農業開発
〇一般殖産の展望
 (各地の物産の保護改良と運輸の便をはかる)
    青森・三本木原、福島・安積原野、栃木・那須野原
〇野蒜築港、運河開設、既設港湾のと河川改修。
~目的~
〇北上川~東京への太平洋岸の運輸大動脈の確保
〇太平洋~日本海を結ぶ横断幹線の形成
〇野蒜築港を東北開発と対米貿易の拠点

野蒜築港は、仙台港の鳴瀬川の河口に造られた、構想は野蒜築港を中心とする土木工学を駆使して太平洋と日本海をつなぐ東北全体の水陸運路の利便性を高める開発構想にあった。


関連事業として7大プロジェクトで整備された。野蒜築港に繋がる運河群は、北上、東名、貞山運河で日本一長い運河群。


野蒜築港事業の関連事業として、ファン・ドールンが考えた市街地はマスメ状に区分され、下水道も暗渠も計画されていた。
(地元からは、悪水吐暗渠、近代土管、モルタルセメントが見つかる)    
工事にあたっては起業公債が発行され全国から集めた。当時としては面白い取り組みであった。

東日本大震災からの復興過程で分かった野蒜築港と先人の土木技術の高さ、近世から近代への土木技術を示す土木遺構である。
近世の舟溜まりと御蔵は、堀と河川をつなぐと洪水の時に逆流するという事で舟溜まりを造り、御蔵を建て一度荷を下ろした。近代土木遺産では、閘門を造る事により水位調整をして舟の水位を確保するので、そういう事はいらなくなった。
野蒜築港工事が始まる直前に大久保利通が斬殺される、事業は継承され完成するがやがて「幻の港」となる。

□なぜ砂が来るのか 東北の地形に原因がある□
東北の地形は、300万年以降、東西圧縮で隆起と浸食によって北上川、阿武隈川があらわれた、また、隠れ断層もあると言われている。北上川、阿武隈川の流れた先に野蒜築港が形成された。仙台湾は、氷河期から水深と海岸線の大きな変遷があった。
野蒜築港は、明治15年に開港するが2年後の嵐しで突堤が砂で埋もれてしまった。ムルデルは、翌年調査し再港不可能とした。明治18年に幻の野蒜築港となった。1801年伊能忠敬が測量して現在までの約220年間で海岸線は約1000m前進(約4.5m/年の前進)島であった不老山などは流砂、漂砂で埋没し「陸の松島」になった。国土地理院の治水地形分類図で砂州が現認でき、いまだに砂が流れ込んでいる。

※鳴瀬川河口付近では、流水によって形成される砂の堆積構造が見られる、波と沿岸流による砂州が広がっている。

鳴瀬川河口を適地として港湾を計画したオランダ人技師、ファン・ドールンの誤算があった、現地の地形、河川や海流による水と砂の動きを見誤ったと考えられる。

□復興創生に向けて□
〇自然地形ー最終氷河期から約1万8千年の自然造形⇒地形を読み解く力
〇歴史・文化ーここ酢百年の生活の場の変遷を考慮⇒まちを形成する力
〇学習ー語り続けられる歴史、風土、、文化、災害⇒次世代につなぐ力

住民の情熱、民間の技術力、研究機関の科学力、学校の教育力、行政の実行力画像アップロード
                  ーどう、うねりを創っていくかー
【その他のPhoto】

 


Part2 安積疏水(あさかそすい) ~日本の土木技術者たちの功績~

1.猪苗代湖疏水(※開削当初は、猪苗代湖疏水といった)
    安積疏水
安積疏水は、猪苗代湖から取水した水を、福島県郡山市とその周辺の安積原野に給水する水路である。

この建設にも、オランダ人技師ファン・ドールンが関わり、事業を成功させた最大の功労者と称えられている。
安積疏水の完成により、不毛の地とされていた安積原野は、一大穀倉地帯に姿を変え、郡山の近代都市への発展に大きく貢献した。明治の国土開発では、最も成功した事例とされた。
日本三大疏水の一つ(安積疏水・那須疏水・琵琶湖疏水)安積疏水は、技術的先鞭をきった事業。選奨土木遺産となった認定理由は、ファン・ドールンによる安積疏水事業を物語る、大型可動堰と水路となっている。


日本初の国直轄の農業水利事業。大久保利通・内務卿、安場保和・福島県令、中條政恒・福島県典事、ファン・ドールン(内務省お雇い外国人が関わっています。


この事業は、猪苗代湖(標高514m)の水が西側の会津盆地(170m)に流れるのを、脊梁山脈で流れない安積原野、阿武隈川(220m)に流そうというものです。
安積疏水の路線図を見ると、きわめて精密による水準測量が行われていたことがわかります。

2.東北の地形の成り立ち
300万年以降の東西圧縮⇒隆起と浸食・断層、阿武隈川、猪苗代湖、奥羽
脊梁山脈ができる。標高約300m、火山岩と段丘堆積物の境界付近を安積疏水は正確な測量技術によって重力方向に自然流下していく。

3.安積原野開拓の夢
猪苗代湖の水を東進させたいとの議論は昔からあった。明治7年に郡山・豪商「開成社」大槻原の原野を開拓する事から始まります。それが注目されて安積疏水に繋がっていく。
~先人の地を見る力~
近世、郡山は宿場町として発展、灌漑用水を皿沼水道として郡山へ。


4,大久保利通の視点 殖産興業 
戊辰戦争前後、全国各地の士族の不満、困窮(明治10年西南戦争など)明治11年3月「一般殖産及華士族授産之義二付伺」「原野開墾ノ義ニ付伺」を上申。

〇猪苗代湖疏水事業 -日本の土木技術者たちの活躍-
ファン・ドールンの指示により、水位水量の測定。
ファン・ドールンが実地検分ー猪苗代湖の取水量や水位変化を試算。
明治12年、ドールンの巡検報告により疏水着工を正式に決定。
工期は3年1ヶ月、延べ人数85万人、総工費40万7100円(現価格約400億円)で当初予算の約2.9倍。工事には、既得水利権への配慮、工事の公開性を示した。

 

5オランダ人ファン・ドルーン
      ~野蒜築港からの帰京途中の視察~
山田寅吉(設計)、伊藤直紀(和算)、新渡戸七郎(伝の孫)が活躍。 ※新渡戸伝は、稲造の兄
この頃、留学から帰った技師、お雇い外国人活躍期(明治元年~15年頃)。
明治政府は、新政府の威信を示すため不燃橋の鉄橋や石橋を架設、日本初と言われる橋が外国人技術者によって造られた。

□安積疏水ものがたり□
・ファン・ドールンの銅像
 戦前、ドルーンの銅像が建てられた。戦中、供出を求められたが村人が山に隠し供出をのがれた。
・貧富の差の拡大、富は少数の地主への集約
・「貧しき人々の群れ」宮本百合子 (大正5年に18歳で発表)
  宮本百合子は、安積開拓で活躍した中條政恒の子、中條精一郎の長女。百合子は、開成山の祖母のところにたびたび訪れ安積開拓の地・桑野村で暮らす人々の生活実態を見て育った、「冬が長く地質も悪いようなところへ貧しい一群を作ったとしても、やはり非常に尊いことなのだろうか」。百合子は、かつて中條政恒らの安積開拓事業が、郡山の近代化に大きな一歩であっても、多くの貧しい小作人を生むという矛盾に気付き悩む。
貧富の差の拡大、富は少数の地主へ集約・・・その後の資本家による産業発展につながっていくのだが・・・
大久保利通が米欧視察後に目指した「殖産興業」「富国強兵」への動きは進が、その後、戦争への道を進ことになる・・・。
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Part3 万世大路(ばんせいたいろ) ~奥羽山脈を貫く~

万世大路は、福島県福島市と山形県米沢市を結ぶ約50Kmの新道、山を貫くだけでなく川を渡る。幕藩期の街道と異なり、荷車や馬車が通るのに十分な幅を持たせた近代的な道路である。事業の特徴は、当時の先端技術で掘られた隧道(トンネル)にあり、なかでも標高約900mに掘られた栗子隧道の延長は約870mで、アジアで最も長いトンネルだった。

1.三島通庸  ※土木県令? 鬼県令? とも言われている。
 ・急峻な山々に囲まれ急流の最上川が県の中央を流れる山形県
 ・山形県令 三島通庸                                 
    ・劣悪な道路状況を改善
    ・農産物などの輸送手段を確保
    ・経済活動を活発化する         
ことに力を注ぐ。明治10年10月、米沢から福島への馬車が通れる万世大路を開通させます。
土木遺産としての認定理由は、明治・昭和期の先端土木技術を駆使し、山形・福島両県の物流並びに人の交流と絆を育んだ歴史的地域資産。

2.山形の地形の成り立ち
300万年以降の東西圧縮⇒隆起と浸食・断層で最上川と奥羽脊梁山脈が出現。近世の時代は、板谷峠を参勤交代で通りましたが、極めて険しい。
東京に行くのに宮城県鳴子経由の遠回り。※標高の最も低い鳴子地区を通らざる時代もあった。特に、冬季間、万世大路は雪で半年近く通行止めになり、トラックなどの自動車は東京方面へは逆戻りする道順であった。
山形県は新潟へは飯豊朝日連峰、福島へは吾妻連峰、仙台・野蒜へは奥羽脊梁山脈があり、東西圧縮により高い所はより高く、低い所はより低くなった。道路整備が極めて不十分で地域振興の大きな障害。

□三島通庸(みしまみちつね)の道路整備□
万世大路
  ・山形~米沢~福島~東京~横浜港
小国新道
 ・米沢~関川~新潟港
関山新道
 ・山形~仙台~野蒜築港

港への流通路として隣県や県内の道路交通網の整備に力を注ぐ。
万世大路は、初代、2代目、3代目(国道13号)、4代目(東北中央自動車道)と続くが「万世大路」という道名を地元や管理者が使い続けていた。

3.三島通庸の新道開削、旧道改修
最上川~西回り航路の舟運(酒田~大阪)から万世大路(山形~福島)そして栃木~東京への陸路の整備へ人力車・馬車が通れる道路整備へ
大久保利通にかわれた三島は、山形に赴任するにあたり、
(1)道路建設                        (5)河川改修
(2)学校の設置                      (6)港湾建設
(3)病院の設置                      (7)殖産興業
(4)警察署の設置
の7つの方針を示す。

山形市に現存する済生館(病院・医学校)は三島によるもので、サクランボを初めとする果樹の栽培なども実施した。


明治初期までは「道路」冬の時代だったが幹線道路の整備は産業発展と軍事増強として重要だった。
明治10年5月工事許可が下りると、オランダ技師エッセルが調査、助言(測量)、世界に3台と言われる米国製削岩機1台を導入し栗子山隧道が貫通。
刈谷、中野新道の開通式に明治天皇が行幸し、翌年、「万世大路」のを賜る。
三島通庸は、県内に65の橋を架け、内11橋が石橋。当時、完成の域に達していた石橋の技術を参考にした。山形の石橋は、凝灰岩が使われているが、これは、山形の地層の堆積物が石橋の材料として供給できる下地があった。

大英帝国の旅行家・探検家・紀行作家イザベラ・バードも「日本奥地紀行」で山形の道に驚嘆した内容の記述がある。

※イザベラ・バードについては、オンライン講座5 「『日本奥地紀行』と旅する山形」2021.4.17も参考にして下さい。

4.「三県道路完成記念帖」
明治18年三島は、工事の記録を残している。洋画家・高橋由一、写真家・菊地新学、荷馬車、人力車、車社会到来を強調。

万世大路の開通1ヶ月の日交通量は人70人~112人、荷馬車10~27台、小駄馬5~17疋、その後、鉄道との競争関係となった。
5.初代~4代目の万世大路の利活用、ライフラインとしての役割
廃道の整備、利活用に地元が断続的な活動


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