豊臣秀吉が関東地方を平定し、徳川家康が江戸に入府(1590年)する以前は、武蔵野台地の東端に位置する山村であったといわれている。それが急激な人口増となり飲み水はどうしていたのか玉川上水、神田上水の名はよく聞くが仕組みがわからない・・・
※雑談だが水には、上水、中水、下水があるらしい。上水・下水は分かるが、中水とは、飲むことが出来なく人体には影響を及ぼさないが再利用される水で、トイレ、工業用水とのことである、これは現代のことですが。
今回の東京都水道歴史館の講演は、石樋の発掘を通して江戸の上水を知る社会科勉強である。(講師:東京都埋蔵文化財センター小林氏)
※樋とは、「ひ」または「とい」といい、河川湖沼の水を放出、流下させるための水門、管 のことで地表に溝などを掘って流水できない場合などに作られた。樋は、石・木・竹樋があった。
上水の最盛期は1696~1722年で六上水があった。神田・玉川・本所(亀有)・青山・三田・千川上水でそれぞれの区域で利用されたが、1722年には神田・玉川上水以外の上水が廃止された。なぜ廃止されたのか? ①江戸の火事が多いのは上水により水脈が切断されている。②井戸堀の技術の進歩(あおりの技術)により200両かかっていたものが3両2分でできるようになった。この時代「享保の改革」1720年には江戸大火により町火消しの誕生など、財政再建の影響を受けたのだろうか。
※「あおり」堀りは、足場を高く組み鉄製の重い錘を引き上げては落とし岩を砕く方法、従来の竹に比べて効率・安価であった。
また、上水によっては、水質の問題もある、本所(亀有)上水などは埼玉県越谷市瓦曽根の溜池が水源であるが、流路である草加ー足立ー亀有ー曳舟ー向島-押上ー業平橋の勾配がなく非常に水質が悪かったようである。
江戸時代の上水は、水源からの地形を考慮しなければならないことから河川の利用と懸樋を組み合わせた上水である。
明治34年には最後の神田・玉川上水も近代改良水道の完成により廃止された。
江戸時代の土木工事の大変さが伝わる、講演でした。
東京都水道歴史館裏手の公園に保存展示されている
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