爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

印刷博物館で「地図と印刷」展

2022-12-06 14:14:33 | 日記

地図に関わる展示会はあるが、「地図と印刷」展は珍しく興味があり印刷博物館へ。

地下鉄・江戸川橋駅が近いようであるが、JR飯田橋で下車。博物館に向かったが間違って神楽坂に、神楽坂は何十年ぶりだろ、せっかくなので「善国寺」に立ち寄る。創建は安土桃山時代で日蓮宗のお寺である。本尊は、毘沙門天で江戸三毘沙門の一つといわれていました。

印刷博物館を併設しているトッパン小石川本社ビルへ。創立100周年記念事業のひとつとして2000年に建設され、博物館、クラシックホールの文化施設を複合したモダンなビルとなっています。

企業による博物館のため、期待はしなかったが、ビックリ!! 入ってすぐにプロローグとして壁面に印刷初期のレプリカ等を圧巻の展示。展示室には、印刷の始まりから近代の印刷技術まで年代ごとに展示。「印刷」とは紙などの媒体に文字や写真などを刷り上げる工程ことを言いますが、印刷は、世界四大発明(羅針盤・火薬・紙・印刷)の一つになるほど人間社会にとって画期的な発明である。

博物館では、印刷の日本史・世界史のコーナーを中心に、印刷×技術、印刷工房として展示、ワークショップとなっている。(一部事前申し込み)
日本史では奈良時代から始まったとされる「百万塔陀羅尼」の印刷の宮廷・寺院から、近世では民間に広がり、近代では印刷産業の近代化、現代では消費社会と印刷。世界史では、700年~の書写から印刷へ→1400年~活版印刷の東西→1500年~宗教改革、各国語の成立→1600年~科学の勃興、大学からアカデミーへ→1700年~ニュースメディアの台頭、市民革命と出版の自由化→1800年~新しい印刷表現、大量生産時代→1900年~戦争とプロパガンダ、光学から電子化へ。

中国から始まった印刷が、木版印刷から活版印刷によりフレキシブル工程となった、グーテンベルグがより機械的な印刷術により、欧州のルネッサンス、宗教改革、啓蒙時代、科学の進展に大きな役割を果たした。
海外・日本とも、宗教による発展が大きく、娯楽、科学・文学・芸術の発展に寄与したがプロパガンダという側面もあった。

 

企画展である「地図と印刷」は、地図と印刷という面白い組み合わせ興味のある所ですが、当然、写真撮影が禁止となっており残念です。京都で木版印刷による民間での印刷・出版が始まり、地図の印刷も同様、最初は中世以来の世界観の日本図が描かれる一方で、印刷された都市図も早い段階で誕生しました。

展示は第一部から第三部まで分かれて展示しています。

第一部は、「日本の印刷地図の始まりと文治の展開」
地図印刷の始まりは、「拾芥抄(しゅうがいしょう)」の図との事である、拾芥抄は、中世日本で出された類書、いわゆる百科事典のような物のようです。江戸時代元禄期の石川流宣の「日本海山潮陸図」でスタンダードとなり地図(絵図)が大衆化しました。

第二部は、「地誌の大成と拡がる世界」
今までの武断政治から世の中を治めるため学問や儒教を中心とする教養で治められ地図や特に地誌づくりが展開されました。地図では長久保赤水の「改正日本路程全図」がベストセラーとなりました。また、地誌では世界に目が向けられ地理知識が求められるようになりました。

第三部は、「世界との接近と伊能図の衝撃」に分かれて展示。
江戸後期に入ると、ロシアの南下政策など海外の列強が日本に急接近し、地図の重要性が認識されるようなり、伊能忠敬が作った「実測日本図(伊能図)」は、あまりの正確さに国家機密とされましたが、国外へ情報が伝わり印刷物として逆輸入されるにいたりました。

地図の資料については、各界の協力により展示されていましたが、印刷との関りが少なかったのが残念でした。

印刷に関わる展示品については撮影は可能ですが、企画展であった「地図と印刷」については不可のため配布資料による概要だけ。

トッパン小石川ビルの住所は、「東京都文京区水道1丁目」となっている。

水道という地名が珍しく調べてみると、この地に「神田上水」が通っていたからとの事。神田上水沿いを水道という名が付けられており江戸時代から小日向水道町、小石川金杉水道町と言われた。現在は、巻石通りとなっており通りを歩いていると「水道端」という名の図書館がある。

この通りに数軒のお寺があり、その中の本法寺は夏目漱石と関りがあり、実家のお墓があります。また、作品「坊ちゃん」の「清」の墓もあると言われ、漱石の句碑のあるお寺です。江戸城にも近く大名屋敷や寺社があったのでしょう。


トッパン小石川ビルの前に神田川に架かる「中ノ橋」がありますが上流と下流にある橋の間のはしのため「中ノ橋」と名付けられたようです。明治時代中期この両岸一帯に桜が植えられ明治末期まで東京市内屈指の桜の名所でした。

地図でもわかるが、この一帯は紙に関わる業者が多く見られるが、神田川も清流だったのだろう。かつては文学者等が多く居住し、いまなお、落ち着いた地域となっている。

【その他のPhoto】

 

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