爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

中山道桶川宿の散策と「さいたま文学館」記念講演 -1-

2024-08-21 11:04:02 | 日記

埼玉県桶川市を訪れたのは、東京学芸大学名誉教授 大石学氏の講演が「さいたま文学館」で行われるため、早めに訪れ中山道桶川宿を散策した。

桶川市は、埼玉県の中東部に位置する7万4千人の市である。江戸時代の五街道の一つ中山道の日本橋から数えて6番目の宿場町で日本橋から歩いて日暮れどきが桶川あたりで(50k圏内)、宿場町として栄えました。旧中山道を歩いていると宿場町としての蔵作りが点在し比較的面影を残している。また、江戸時代から栽培されている紅花は、「桶川臙脂(おけがわえんじ)」として知られ、山形県最上地方についで2番目の収穫量がありました。
桶川市の多くが大宮台地上にあり最高点が海抜25mでJR高崎線桶川駅付近は起伏が少ない。
地名の由来については、不明のようで文献上は1352年(観応3年)の足利尊氏の家臣への下文に「桶皮郷菅谷村」と記されたのが最古であるが、菅谷村は現在の桶川市ではなく隣の上尾市のためはっきりした由来は不明のようであるが、二つの仮説が云われている。
仮説1>「沖側」のオキは広々とした田畑の意で、その方向である「沖側」が訛ったというもの。
仮説2>「起き川」に由来-芝川、鴨川等の水源が有ることから川が起こる所すなわち「起き川」になったというものである。
今まで、「桶」からきていると思っていましたが間違いでした。

桶川駅下車し東口から旧中山道に向かう、途中、浄念寺に立ち寄る、室町時代初期(1360年頃)に朗海上人が修行のための草庵を創建、小金東漸寺の團誉桂全善壽上人(文禄4年1596年寂)が開山したといいます。江戸時代初期には、桶川宿の領主西尾隠岐守吉次が、地蔵菩薩像・薬師如来像を奉納、明治維新に際しては、廃寺となった南蔵院の不動尊像を当寺へ移設、桶川不動尊として信仰を集めているといいます。山門が立派なお寺です。

旧中山道の最初が武村旅館です。中山道の桶川宿にあった旅籠の姿を今にとどめる。江戸時代の間取りが今なお残されている。国登録有形文化財に指定。現在この建物には宿泊できないが、隣接してビジネスホテルがある。

旧中山道を北に向かうと島村家住宅土蔵がある。土蔵なので通りには面していない。1836年の建築で土蔵造3階建、瓦葺、建築面積71㎡の桁行6間,梁行3間規模,切妻造土蔵である。島村家は中山道桶川宿に店を構えた穀物問屋木嶋屋の総本家でこの土蔵の建築工事は、天保の大飢饉にあえぐ人々に仕事を与え、その報酬により多くの民が餓えから救われたことから、「お助け蔵」であったと言い伝えられています。
 現在は黒漆喰壁がトタンで覆われていますが、建設当時の島村家の勢いを感じさせる堂々とした作りの土蔵です。屋根の両端にある鬼板には、屋号の木嶋屋の「木」の字が 刻まれています。土蔵で3階建てというのは珍しい建築物です。(桶川市で唯一、第一土曜日に内部公開されています)

「島村老茶舗」
江戸末期創業、店舗奥の母屋は、その時に建てられた。屋号は、「丸木」といい家業の紅花に加え、狭山茶、静岡のお茶や紙も扱っていた。1926年に、街道沿いに木造2階建ての店舗を新築した。国登録有形文化財

「小林家住宅母屋」
江戸末期に旅籠として建てられた。現在はギャラリー&カフェとして営業。
文久元年(1861年)の和宮御下向の割書上には吉右衛門の名が記されており、その「吉」の名は主屋の鬼板に刻まれています。現在の内部は多くの部分が改修されていますが、外部には旅籠の面影がうかがい知れます。国登録有形文化財

「矢部家住宅」
道路に面した土蔵造りの「店蔵」とその奥へ続く「住居部」と「文庫蔵」で構成されます。店蔵は明治38年築。
木半の屋号で知られた穀物問屋で、かつて江戸時代に紅花商人としても活躍していました。店蔵は矢部家第6代当主矢部五三郎氏によって建てられ、棟札には、川越の「亀屋」建築に係わりの深い大工や左官の他、地元の大工、鳶、石工らが名を連ねています。桶川の歴史を物語る桶川宿の「顔」ともいうべき立派な建物です。桶川市指定文化財
訪れた日は、入口に残念ながら工事幕が張られておりました、中山道宿場館の話では車が飛び込んだとの話でした。

「本陣跡」
門の奥に本陣の遺構があるが、非公開。桶川本陣は、加賀藩・前田家などの宿所だった。埼玉県・桶川市指定文化財。

桶川宿の開設当初に近い寛永14年に58軒であった宿場の戸数は、紅花が取引されるようになった寛政12年(1800)には247軒に達し、桶川宿も「町」としての姿を示すようになったようです。その後、桶川宿は、「中山道もの」といわれた麦や、紅花の集散地として栄え、幕末に近い天保年間(1840年頃)には家数347軒に達しています。
宿場としては、加賀百万石前田家をはめとする参勤交代の大名や、徳川斉昭もこの地に足跡を残しています。近世最後を飾る大通行として知られる皇女和宮の江戸下向には一行の宿泊と人馬の継ぎ立てに大きな役割をはたし、3万人を超える人々が行列の通行のために集められたと記録されています。
明治に入ると時代の変化とともに中山道は衰退し、宿場の役目も終わり、紅花も輸入品や化学染料に変わり衰退した。1883年には中山道に沿うように高崎線が敷設、1885年に桶川駅が設置された。現在の旧中山道は、シャッター店舗もあり再開発の遅れが目立つが、それが古い商家が残り旧中山道宿場としての面影を感じさせる所以かもしれません。

最後に「中山道宿場館」で休ませていただき午前の旧中山道の散策は終了となりました。


【参考資料】
・ウイキペディア
・猫の足あと
・文化遺産オンライン
・桶川ウエブ
・じゃらん
・桶川市
・桶川市教育委員会
・中山道宿場館
・桶川市観光協会

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