爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

湯島から春日を巡る文学散歩

2018-09-02 10:17:56 | 日記

今回の「退職者の会」は、格調高く文学散歩となった。前回7月の企画は猛暑のため中止となり、幹事のMさんも異例の残暑で心配していましたが、少しは治まるのではないかと計画してくれました。
東京メトロ湯島駅で下車し「湯島天神」へ向かう。上野駅から行った事はあるが今回のコースは初めてである、春日通りの上り坂の途中に石川啄木の歌碑があった。
         「二晩おきに
       夜の一時頃に切通の坂をあがりしもー
           勤めなければかな。
                    石川啄木」
 啄木が当時朝日新聞社勤めで変則的な勤務があり行き帰りの道の状況をよく表している。歌人としての啄木は変則的を好まず、暗い舗装されてない坂道はいやだったのだろう。

湯島天神へは、唐門から入る。古来より代表的な天満宮で学問の神様である菅原道真公を祀っているため受験シーズンには参拝が多く絵馬は合格祈願である。
湯島天満宮は、創建が458年と言われ。徳川家康が江戸城に入ってからは代々崇敬を受けて多くの学者、文人が訪れた。そのため様々な碑が境内に点在している。また、富くじの興行(江戸三富の一つ)、境内の梅も有名で「湯島の白梅」という歌にもなり大ヒットした。「湯島の白梅」の歌詞も当時の様子をよく表している。
            1 湯島通れば 思い出す
                  お蔦主税の 心意気
                  知るや白梅 玉垣に
                  残る二人の 影法師
            2 忘れられよか 筒井筒
                  岸の柳の 縁むすび
                  かたい契りを 義理ゆえに
                  水に流すも 江戸育ち
            3 青い瓦斯燈 境内を
                  出れば本郷 切通し
                  あかぬ別れの 中空に
                  鐘は墨絵の 上野山
文豪 泉鏡花の代表作「婦系図」の主題歌となっている。明治三大メロドラマ(金色夜叉・不如帰)の一つとして上映が戦時中にもかかわらず大ヒットした。境内に立っていると名台詞「月は晴れても心は暗闇だ」、「切れるの別れるのて、そんな事は芸者の時に云うものよ。  私にゃ死ねと云って下さい。」がうかぶ。

湯島天神を出て春日通りを西に歩くと「麟祥院」がある、徳川三代将軍家光の乳母だった春日局の菩提寺である、古い墓石や苔のある岩が残る名刹である。春日局の墓石は奥まった所にある、石に囲まれた中に卵形の墓石に丸く穴が開いている、これは死後の世界からも政治を見通せるようにとの春日局の遺言に基づいており、当時としては珍しく政治的であるが、春日局の生い立ち幼少期の生活からくるものであろう。

麟祥院からさらに春日通りを西に歩くと古い洋風建築が見える、「本郷中央会堂」である。
Mさんの話では、夏目漱石の小説「三四郎」にも登場するとのこと。佐藤千夜子、山田耕筰、中山晋平なども出入りしていた教会でもある。現在は登録有形文化財となっている貴重な建築物である。

本郷三丁目交差点に「かねやすビル」1階が店舗2階以上が貸しオフィスのようであが、この「かねやす」江戸時代から続く珍しい店である。当地で兼康という現在でいう歯科医が「乳香散」という歯磨き粉を売り出し大繁盛したという。享保15年(1730)に大火があり、再興に力をそそいだ大岡越前守は、ここを境に南側を耐火のための家屋を命じた、店舗の外壁に「本郷もかねやすまでは江戸の内」というプレートが掲げられている。

春日通りを西に歩いて行くと理容店の壁にプレイトがあり、そこには「啄木ゆかりの喜之床旧跡」とあった。明治42年6月にこの喜之床(現:理容アライ)の2階に転居し2年2か月住み、啄木の最もすぐれた作品が生まれた。その後、転居し明治45年に26歳の若さで生涯を閉じた。

「かねやす」の反対側に桜木神社、住宅街の中に小さい墓地と十一面観世音菩薩があった、何とも不思議な一画である、水道設備と手オケだけで何もない、少し歩くと道路の真ん中にお堂があり、入口の表通りに提灯がぶら下がった表示に「本郷薬師」とあった。かつては、ここに真光寺があった場所で、戦災で焼失したためこのような状況となった。

本郷通りから「菊坂」に入る、その名の通り菊作りの人が多いことから名付けられた。文人たちの足跡の多いところで樋口一葉は有名である。菊坂を歩いていると脇道に「金魚坂」の表示があり立ち寄る、分かりやすい坂道名である、江戸時代から続く創業350年の金魚問屋があり、たくさんの水槽が種類ごとに並べられていました。

菊坂に戻り歩いていると先に小さい鳥居とお堂が、「火伏稲荷」とあるが火災・防災のお稲荷さんだろうが、この地を考えるとこのお稲荷さんの果たす役割は大きい。

さらに下ると「旧伊勢屋質店」がある。一葉の家庭は引っ越しが多く生涯12回転居したそうである、本郷に転居したのも父が死去し一葉は世帯主として母親、妹を養う身での転居で度々「旧伊勢屋質店」を利用した。伊勢屋質店は、昭和57年まで営んでいたが、現在は跡見学園女子大学が所有している。

一葉の住まいは菊坂に平行して通る「菊坂下道」の路地にあったが住まいはなく、一葉も使ったという井戸が残されている(現在は手動ポンプ)。

一葉の終焉の地に向かう途中「新坂」を下るが、この新坂は、もと森川町と呼ばれた所で、金田一京助の世話で石川啄木が一時移り住んだり、高等下宿が多く二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など文人が多く住んだ。
一葉の終焉の地は、本郷から近い白山通り文京区西片1-17ー8(旧丸山福山町)にある。ビルの片隅に碑があるだけで、多くの人は気がつかない場所である。この地で数々の名作が生まれたが、一葉は、結核のため24歳の若さで亡くなった。苦労の連続で悲しい生涯であった。説明文の隣に平塚らいてうによる文学碑が建っている。

春日通りから駅よりの「こんにゃく閻魔」の源覚寺に立ち寄る。「こんにゃくえんま像」は、鎌倉時代の運慶派仏師の作と推定されており、そうとう古いと思われる、特徴は閻魔像の右目が濁っているのが他と違う。名の由来は、一人の老婆が眼病を患いここの閻魔大王に祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の目をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまち治り、老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、閻魔大王に供え続けたという。以来、この閻魔大王は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で信仰を集めている。その他、塩地蔵尊(治したい箇所に塩をつける)、汎太平洋の鐘は、サイパンの南洋寺に拠出された鐘が戦禍で行方不明となり、後に米国本土より返還、南洋群島物故者慰霊像など広くはない境内に祀られている。

源覚寺を出て駅に向かう正面に「シビックセンター」が建っている、区役所の中では一番高層建築物である。上の方から展望できるとの話でせっかくだから行ってみようということになり25階の展望室へ。曇り空のため遠くまで見えないがスカイツリー、新宿、池袋の高層ビルを眺められた。

今回の文学散歩で本郷界隈は、まだまだ古さが残る東京(市)を感じることができた。しかし、多くはあまりのも変わりすぎてプレートの説明文でしか当時の場所を知ることしかない。詳しいMさんのおかげで効率よく回れた。

【その他のPhoto】

 

 

 

 

 

 

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