爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

オンライン講座7 「九戸政実、覇王・秀吉に挑んだ男」を聞いて

2021-09-20 16:48:44 | 日記

副題:~天下平定の仕上げ「奥羽仕置」と九戸一揆の真実~
      「豊臣秀吉が行った奥羽仕置、それに抗い、南部氏の勇将・九戸政実(くのへまさざね)は

   決死の籠城戦を繰り広げた。近年、九戸一揆の図式が揺らいでいる。最新研究から戦国乱世に

   終わりを告げた戦いの真相に迫る。」としている。

「九戸政実」や「奥羽仕置」初めて聞くが戦国時代に北東北の南部領内で何が起きたのか?
一般に「九戸政実の乱」と呼ばれる騒乱の背景には、同じ南部氏一族である両者の確執が

大きく影響している。近年は、反乱ではなく九戸一揆、九戸合戦と呼称も改めつつある。

講師は、県史や地域歴史を研究している、八戸工業大学第二高等学校教諭 熊谷 隆次氏である。

このテーマの舞台は、現在の青森県、岩手県、宮城県、秋田県であり、中心となる人物は、

三戸城の南部信直、九戸城の九戸政実、豊臣秀吉の3人である。

Part1 北奥羽を治めた南部氏とは
 1.戦国期の糠部郡と「戸」の領主
   ①糠部郡は、岩手県北部~青森県太平洋側、一戸・三戸・四戸・七戸・八戸・九戸があり、

   それぞれ戸には領主が存在した。
   ②「戸」の領主は、独立して領域(領土)と家臣団(「家中」)を保持する領主。
   ③「戸」の領主は、「南部」を名字とし惣領家の三戸氏を中心に連合的な族的集団(「一家」)

     を形成。
  2.戦国後期 四戸・櫛引氏と八戸氏の紛争
    それぞれが攻撃し、結果、八戸氏が勝利し領土を接収した。
  (1)戦国期の北奥羽
     戦国期、北奥羽の諸領主は、南部氏の領地(糠部郡、津軽、鹿角郡、久慈、岩手郡、

     閉伊郡)安東氏、浅利氏、戸沢氏、本堂氏、六郷氏、稗貫氏、遠野氏、和賀氏・斯波氏領、

     小野寺氏、葛西氏領         

 (2)永禄期「鹿角郡合戦」
     戦国期、南部晴政氏と安東愛季氏と対立、安東軍に対し南部氏は二経路から反撃、南部

     信直軍(糠部郡の領主)九戸政実軍(久慈、閉伊郡、浄法寺)により勝利を収める。

     後にこれが九戸一揆に関係する事になる。南部信直は、糠部郡を傘下に収め、九戸政実は、

     久慈、閉伊郡、浄法寺を傘下に収めた。

 (3)元亀期「斯波御所」との境目争論
     南部・不来方城と斯波郡・高水寺城が合戦
     南部軍には、南部高信(南部信直の実父)、九戸政実が参戦・・・・和睦
     元亀期「斯波御所」との境目争論の意義
     南部領の南側、岩手郡北を支配下に置く。南部高信と九戸政実が南部氏の南下政策の中心。

              鹿角郡合戦  と 斯波御所・境目争論
                          ↓
   南部晴政の時期、外征を機に南部高信・信直父子(田子)と九戸政実が勢力を拡大

  (4)南部信直の家督相続
      南部晴政、晴継父子の死により、天正9年(1581)南部信直が三戸南部家の家督を継ぐ。

Part2 北奥羽を襲った外圧、秀吉の「奥羽仕置」
  1.南部信直の家継承と内紛
  (1)クーデターによる家督継承
      南部信直は、晴政の長女と結婚、二女は、九戸実親(九戸政実の弟)と結婚。

      三戸南部の家督を九戸側で継ぐという事で内紛が。

  (2)南部晴継の存在
      新資料では、南部信直は、先代を晴継ではなく晴政を「先代」と記述。南部晴継は

      家督を継いでない、晴継そのものが存在しなかったと・・・。
  (3)「戸」の領主の内訌(ないこう)
     ①八戸氏:八戸氏の一族、八戸経継が九戸政実に内通。・・・経継を捕縛し殺害                      
     ②一戸氏:一戸政連の弟一戸信州、九戸政実に内通。信州が兄政連を殺害。・・・一戸家断絶
 2.天正後期 北奥羽の領主との紛争
    安東愛季が再び南部領に侵攻。・・・安東氏、戸沢氏との合戦で討ち死にし安東氏側が劣勢に
  「斯波御所」斯波詮直が不来方城に侵攻・・・南部側、九戸政実、八戸直栄を派遣し掌握する。
 3.豊臣政権への服属
  南部信直は、北信愛を前田利家に派遣。当時、前田利家は秀吉の重臣として位置づけられ東北の

    領地の服属に関わっていきます。利家の起請求文(南部信直宛)にも秀吉に対しての取り成し、

    南部信直を保護すると記しています。なぜ、派遣したかは内紛、安東氏、斯波御所との戦が

    背景にあるものと思われる。

4.津軽為信の挙兵と南部一族の内紛                                                          
    安東氏の領内で湊騒動がおきる。これは湊通季(豊島城主)の挙兵によるが、南部信直は

    比内郡を手に入れる。
    津軽為信(大浦氏・南部一族鼻和郡大浦城主)が南部を裏切り、安東実季と同盟関係を結び、

    南部を攻める事が出てきた。安東実季はこの混乱に乗じて比内郡を奪還する。為信も津軽領を

    手中に収める。天正18年(1590)までに一挙に領地を信直は失った。

    また、一族にもまとまりを欠く動きもあり、前田利家が信直宛の書状に家中にも反逆の輩がいると            記している。(七戸・九戸が該当)
  5.奥羽仕置と九戸政実
    このような津軽の反乱、南部の危機的な状況の中で小田原攻めに伊達政宗、最上義光、南部信直が

    参戦、天正18年7月小田原城落城後に会津「奥羽仕置」に出陣する。

                             奥羽仕置(おううしおき)
                   天正18年(1590)豊臣秀吉が東北地方の諸大名に

                   行った領土の配置換えや検地、刀狩りなどの統治策。

    「奥羽仕置」とは
     ①奥羽地方の領主の「近世大名化」の画期。
     ②奥羽地方に対して強行した「豊臣体制化」の推進。
     ③奥羽の「中世」から「近世」への画期。

天正18年(1590)7月27日、豊臣秀吉南部信直に送付した朱印状には。
   《内容》
      1.南部のうち七郡の領土の支配を信直の意思に任せる。
      1.信直の妻子を在京させること。(人質)
      1.知行の検地を行って蔵入地(直轄領)を確保し在京費用を維持すること。
      1.家中(家来)の城を破却し、その妻子を三戸城下に集住させること。
      1.右の四か条について、「異儀」(抵抗)におよぶものがいれば豊臣政権が成敗する。

  豊臣秀吉 ⇒ 南部信直 ⇒ 南部氏の「家中」(家来)・・・ピラミッド型の支配体制に

豊臣秀吉の奥羽仕置の責任者は、重臣の浅野長政であった。長政は、花巻城(旧稗貫郡・鳥谷崎城、

現在の岩手県花巻市)に八戸政栄、九戸政実ら南部信直一族・家臣を召喚し服従するように命じた。

豊臣秀吉の奥羽仕置の後、天正18年9月~10月にかけて、仙北・由利一揆、庄内・藤島一揆、

和賀・稗貫一揆、葛西・大崎一揆が立て続けに起きた。

Part3 政実の秀吉軍迎撃と籠城戦が物語るもの

  1.九戸一揆のはじまり
    天正19年(1591)2月始め九戸一揆が起った。
  2.四戸櫛引氏と一揆
    天正19年(1591)2月24日 根城(八戸)が島守城(櫛引氏)を落城させる。直後、

    櫛引城を襲撃。
    天正19年(1591)2月下旬頃、櫛引清長が南康義を攻撃、報復で南康義が櫛引清長を攻撃。

    戦国末期、奥羽仕置以前の天正期、南氏と櫛引氏は、四戸の地の境界をめぐり何度も紛争を

    起こしていた。
          【九戸一揆の緒戦】
        ①櫛引氏と八戸氏
        ②櫛引氏と南氏
               ⇓
              戦闘

   九戸一揆とは
   地域の領主にとって「奥羽仕置」で停止させられた地域紛争(私戦)の再発
   天正19年2月28日、奥羽仕置の担当浅野長政の家臣連署状(色部長真宛)で当時は、

 「九戸一揆」とは豊臣     政権の「奥羽仕置」に対する抵抗と言われてきた。他の資料でも

 南部一族の2・3名が逆心、または、南部家来の内、九戸、櫛引、その他、小侍が逆心と書状に

 記している。浅野長政の書状でも、九戸、櫛引の成敗と記している。
  古文書の原則では、最初の名前の者が首謀者。「九戸一揆」は、九戸政実が首謀者。櫛引氏は

 政実に次ぐ存在。九戸一揆は、戦国期の地域紛争の再発。豊臣政権への抵抗より地域紛争をもう

 一回復活させるという事。

                           □「逆意」□    □「逆心」□
奥羽仕置の際、「叛逆之族」「及異儀者」「不相届覚悟之輩」「愚意申族」と断定された、

九戸政実らを書状などから豊臣政権がずうっとマークしてきた。成敗する対象であった。

  3.豊臣秀吉による「奥羽再仕置」
    天正19年4月13日、九戸一揆を鎮圧する中央軍の派兵要請のため、南部信直は、

  南部利直(信直の嫡子)を京に派遣、6月9日豊臣秀吉に謁見、派兵要請。
    天正19年6月20日、豊臣秀吉は、朱印状を発行した、内容は「奥羽奥郡の一揆鎮圧の

  陣立て」で。
                      一番 伊達政宗
                      二番 蒲生氏郷
                      三番 佐竹義宣
                            宇都宮国綱
                      四番 上杉景勝
                      五番 徳川家康
                      六番 豊臣秀次        となっている。

    伊達政宗の調停を捨て、蒲生氏を主力とする豊臣中央軍による殲滅に方針転換。9月1日には、

  蒲生は三つの城を一日で鎮圧。9月2日には九戸城の鎮圧に豊臣政権軍が集結し9月4日に落城

  させた。書状によると9月2日~3日の間、火矢、鉄砲にて毎日攻めたとし、激しい籠城戦が

    あった。
    九戸城は、天正19年9月4日に降伏落城した。九戸と櫛引氏は豊臣秀次の本陣三迫(現・宮城県

    栗原市)で斬首された。また、家臣達は、九戸城にて処刑されたと言われています。

                                                                  (その数5千と言われる)
    従来は、九戸一揆は九戸政実が中心となって、南部信直を恨んで挙兵したと言われていた。

    現在、別の解釈が出てきた。

九戸城落城後の文禄期の南部信直の書状には、
〇昔を引きづって、九戸の親類共が九戸政実よりも戦国時代をこだわり過ぎて、九戸政実を

  滅亡においやった。
〇戦国時代、先代、南部晴政が安東と仲が悪かった。これは、先代晴政の恨みで迷惑であった。

  戦国時代は、自分の意志とは違った事を引きづっている。

本講座のまとめ
                    ◆奥羽仕置◆      ◆九戸一揆◆
二つの出来事を通じて起きた大きな転換点
転換点① 領主の配置換え
          ・津軽の独立、南部氏と伊達氏の領境接触など
          ・奥羽の「要」会津城主による中央集権的監視体制
                      ⇓
               奥羽大名の自立性の抑圧

転換点② 「戸」の領主による集団「一家」の解体
          ・戸という同族が無くなる、戦国的な考えの家系が消える。
     ・奥羽仕置により三戸・南部家と根城・八戸家が残った。
     ・戦後期、同族結合、連合体を作っていたが、ほとんど消えた。
                      ⇓
              南部信直の権力確立
                      ⇓
               奥羽の戦国の終焉


九戸一揆の時代は、戦国乱世という言葉がピッタリである。合戦により勝利と躍進、敗北と滅亡、

様々な謀略、裏切り、目まぐるしい合従連携など溢れる時代である。熊谷先生も最新の資料等で分析、

研究を紹介して頂きましたが、また、新たな資料が出るかもしれません。  

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