爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

上野界隈を散策

2014-04-21 21:43:31 | 日記
4月18日は、葛飾北斎の法要があり、北斎の肉筆画、北斎漫画の初版本を見ることができるということでMさんが企画してくれた。上野公園は、身近な場所でもあるが、行って見てあまり知らない事がわかった。
 日比谷線上野駅を下車し上野公園の中に。上野公園の歴史は、三代将軍徳川家光が丑寅(北東)の方向の鬼門封じのため寛永寺を建てた場所で、将軍家の墓所として当時は芝の増上寺とともに権勢を誇ったが、戊辰戦争で寛永寺に立て篭もった彰義隊が新政府軍に敗れたため、一帯は焼け野原となった。新政府となり1870年に病院予定地として上野の山を視察した蘭医ボードウィンが公園として残すように日本政府に働きかけた結果1873年に日本で初めての公園に指定された。いまでは、日本屈指の都市公園で美術館、博物館、歴史的建造物など文化施設が多数存在し文化芸術の集合地域である。
 公園内を歩いていると「正岡子規記念球場」があった、正岡子規は野球が好きだったようで野球の名づけ親との話もあり球場のそばに句碑があった。球場を通り過ぎ寛永寺本坊表門へ、寛永寺はかつて36坊の総称で東京ドーム21個ぐらいの面積であった。寛永寺も戊辰戦争(上野戦争)で多くが喪失したが、いまなお当時の面影が残るのが通称・黒門(重文)である、解体復元されたが扉部分の弾痕は重要な歴史的証拠として保存されている。隣接して開山堂両大師がある、開山した天海と天海が崇敬する良源を祀ったことから両大師と言われてます、東側の通用門には幸田露伴の移築門があり明治期の風情をとどめている。

さらに国立博物館裏を通って寛永寺根本中堂(本堂)へ入る、本堂はもともとこの場所ではなかたようで彰義隊の兵火で焼失したため、子院を本堂とした。 境内には銅鐘、上野戦争碑記、乾山深省蹟(尾形乾山は、尾形光琳の弟)などが見られる。有名なお寺のわりには「これが本堂」という感じであった、いかに上野戦争がこの一帯を焼けつくしたかわかる。

寛永寺の裏手の言問通り沿いにある、八万四千体地蔵の「浄名院」をお参り、みごとな数のお地蔵さんである。思わず、なんでこんなに???・・・宮様が大変、地蔵尊の信仰をされ、自ら地蔵尊の御影を描いて、江戸府内のお寺に配ったそうです、これがきっかけで本格的に地蔵尊の建立をはじめたそうです。加工のしやすい「小松石」を使っているので痛んだものも多くあります、地蔵尊には数字が刻印され、和尚さんのこだわりが感じられます。このお寺は、「へちま供養」でも有名で、旧暦の8月15日にはせき、ぜんそくで悩む人達が多くお参りし賑わうそうです。

 12時近くになり、さてどこで昼食?昼食場所をもとめて、さらに言問通りを歩くとレトロな商家、民家が見られる、通りに面している「吉田屋酒店」(移築)は有名で明治43年に建てられた建物は、腕木より軒桁が張り出し出桁造り、正面は坂戸と格子戸の上げ下げで開閉する上げとが設けられています。江戸中期から明治時代の商家建築の特徴が見られる。昼食は、「吉田屋酒店」の並びにある、「カヤバ珈琲」で、このお店もレトロ感いっぱい、大正5年(推定)の建設以降、ミルクホール、かき氷・あんみつ店などを経て昭和13年より「カヤバ珈琲店」に、一時閉店していたが多くの方の支援により再開、出桁造りの商家、外観や商家の特徴を残しながらも現代的な空間も兼ね備えている。昼食も済み、上野駅方面へ、昭和初期の建物の老舗菓子店「桃林堂」で買い物、疲れてくると甘いものが欲しくなる・・・、

右に曲がって「護国院大黒天」(谷中七福神)をお参りし、上野公園の中に。公園内では、上野東照宮をお参り、藤堂高虎が徳川家康の遺言で造営した、金箔をふんだんに使ったことから「金色殿」とも呼ばれた。行った時は、ぼたん祭りを開催していた。さらに駅に向かい「上野大仏」と「時の鐘」に寄る、上野に大仏なんてあったけ?鎌倉の大仏のような大きな大仏は歩いていて見た事ないな?看板があった!だが近づいても見えない、顔だけが残った悲しい歴史の上野大仏である。関東大震災、太平洋戦争のため今は顔だけが残っている。こんな悲しい大仏も受験生には人気、「これ以上落ちない」と受験生が顔面のレリーフに触れるとご利益が?仏塔のある所から「時の鐘」が見える、松尾芭蕉が詠んだ「花の雲 鐘は上野か浅草か」は有名で、最初の時の鐘だった。

清水観音堂は、京都の有名な寺院になぞら得て建立、歌川広重の代表作である「名所江戸百景」で描かれた「月の松」が、約百五十年ぶりに復活し松が目の前に見られる。

さらに駅に近づき、「彰義隊の墓」「西郷隆盛銅像」を見て駅の反対側にある「誓教寺」に向かう、「誓教寺」は先月お参りしたが、Mさんの話では4月18日が北斎の命日で、年1回、肉筆画や「北斎漫画」が間近に見られるとの事。まずはお参り、覆堂の側面も開けられ、そこには辞世の句「ひと魂でゆく気散じゃ夏の原」と刻まれている。気散じというのは、今で言うピクニックとの事、人魂となって野原をピクニックということらしい。お参りが終わり、お寺の部屋に案内される。2部屋続きの所に掛け軸を鴨居から吊され、テーブルには「北斎漫画」が何冊も無造作に置かれていた、こんな「お宝」が間近で見られるなんて信じられない。作品は「東海道名所一覧」「絹本着色骸骨図」「紙本墨画淡彩達磨図」「地方測量図」などが見られた、ご丁寧に住職さんが作品の説明までされていた。骸骨図と達磨の作品は見たことがあるが、名所一覧(鳥瞰図)と測量図は私の注目する所であった。葛飾北斎に測量・地図の情報がどのように入ったのか不思議であったが、伊能忠敬が30年前に亡くなっているので整合性はあう。それにしても観察力、緻密さが素晴らしい、それが「北斎漫画」に現れている。「北斎漫画」は、一般的な漫画と思えるが、絵手本となるスケッチ画集で今で言うカット集である。江戸時代の風俗がわかり見ていてタイムスリップしそうである。

 作品を見に来ただけなのに、お寺でお茶やお菓子まで頂き感謝したい。皆さんにそうしているらしく、住職の思いが伝わってくる。帰りは「下谷神社」・「寄席発祥の地」石碑をお参りし帰路に。

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