爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

三田~泉岳寺~高輪付近の散策

2015-04-01 11:35:06 | 日記

「日帰り散歩」の幹事Mさんから友人の墓参り行くが、その後、泉岳寺に行きませんかのお誘いがあり、前の日帰り散歩で、赤穂浪士討ち入りの吉良邸を訪問したが、泉岳寺訪問で完結と思い、二つ返事で「OK」。お墓参りが主のため、Sさんを含め3人で行くことになり、いつもの集合場所で集まり、三田駅で下車をしました。
この田町付近は、妻とともに思い出の地の一つで、変貌ぶりにはビックリするばかりであるが、40年以上前のことだから当然である。時期が違うが、私はJR田町駅芝浦口で、妻は三田口で降りたが、妻の勤務していた電気会社が入居していた「森永プラザビル」は現存していた。
付近に三菱自動車本社があるが、この場所が江戸城開城会見の地であり、敷地内に記念の碑が設置されていた(40年前はそんな場所である事は、気がつかなかった)。かつては薩摩藩のお屋敷で勝海舟と西郷隆盛が2回にわたり会談し合意したが、これが歴史的な大転換であり、戊辰戦争などが優勢に進められるきっかけとなった、その後、江戸城が宮城となるなど文明開化が急速に進んだ。
第一京浜を品川方面に進むとビルに御田八幡神社の表示が現れる、(現在の地名「三田」の元となった神社)このビルの脇を上がると境内がある、赤穂浪士も引き揚げの際にこの前の道を通り、この辺一帯の氏神様である。

本殿の裏に階段があり、上がった所が、港区立亀塚公園である。東京の地形はこんなに高低差があるのかと思わせる風景である。公園内には「亀塚」「亀山碑」があります、古くから古墳と、学者により指摘されてきたが、確定されてはいないようです。


公園の隣に「済海寺」があるが、1859年にフランス総領事館となり、2年後には公使館となり1874年(明治7年)まで続いた、現在は境内に「フランス公使宿館跡」として碑がのこされている。Mさんのお参りする「玉鳳寺」行くのに「幽霊坂」を通ったが、この辺、お寺が両側に多くあり、物寂しい坂であるため付けられたようだが、この「幽霊坂」という呼び名は、都内には多くあるようです。

「玉鳳寺」に到着し、お参りを済ませるが、このお寺の山門横に「化粧延命地蔵」(おしろい地蔵)があった。このお寺、開創は八丁堀で三田が寺町として指定され際に移転したが、八丁堀の橋のたもとに放置されていたものを修復し泥まみれだった事から白粉を塗って祭った所、和尚さんの顔のアザが消えたので、人々が病気のあるところと同じ部分に白粉を塗って祈願するようになったと言われている。ここには観音像があるが、宝塚歌劇団卒業生で日本航空123便御巣鷹山墜落事故犠牲者の北原遙子さんの実家が玉鳳寺の檀家であったことから観音像(遙子観音)として有志が建立、黒木瞳さんをはじめ北原さんをしのぶ人たちが参拝しているとの事である。

お参りを済ませ、儒学者「荻生徠」が祀られている「長松寺」に立ち寄り「魚籃坂下」交差点に出る、魚籃という名は珍しいが、「魚籃寺」からきている。横溝正史の小説である「病院坂の首縊りの家」がこの近辺に設定されており、病院坂がこの「魚籃坂」である。中途には別名「三味線寺」(三味線製作の始祖石村源左衛門の墓所がある)と言われる「大信寺」を過ぎて「魚籃寺」に、「魚籃観世音菩薩」が祀られているが、中国、唐の時代、仏が美しい乙女の姿で現れ、竹かごに入れた魚を売りながら仏法を広めたという故事に基づいて作られた菩薩から付けられた。

隣のお寺が「薬王寺」である、俳人「加賀千代女」が旅の途中に薬王寺に霊水の井戸があることを知り立ち寄り、あの有名な“朝顔に釣瓶取られて もらい水”と詠みました。また、明治の三筆の一人と言われる書家の「中林梧竹」もここに祀られています。

魚籃坂を進み「伊皿子交差点」さしかかると角に黒御影石の碑が建っています、こんな歩道の所に?読んでみるとこの地が東京歯科大学の前進である、最初の歯科医師免許をとった高山紀齋が歯科医学校を設立した地であるという碑であった。この交差点から伊皿子坂を下がった所に「泉岳寺」がある。

赤穂浪士・浅野長矩の墓所であまりにも有名なお寺である(国の史跡)。泉岳寺では、赤穂浪士ではなく「赤穂義士」と呼んでいる。境内には「赤穂義士会館記念館」があり、ゆかりの品々な展示されているが、中には吉良上野介の首の請書?の書状があった、Sさんと「こんなのがあるんだ!」とビックリ。境内には学寮があり、これが現在の「駒澤大学」に発展した。泉岳寺は、最近、TVで隣のマンション建設が話題となっているが、工事はすでに始まっていた。8階建ての建物はやはり圧迫感があり何とか景観を保てないものだろうか。

泉岳寺の近く、都営高輪アパート内に「大石良雄外十六人忠烈の跡」があった。熊本藩細川家の下屋敷の場所であり、現在、都営アパート内にその小さい一角を保存している。

承教寺は、泉岳寺の南にあるお寺である。山門脇には、二本榎の碑、本堂前に英一蝶(江戸中期の画家)の墓石がある。古い鐘楼の下では子どもたちが車座になっておしゃべりをしていた、今でもこんなほほえまし光景が見られるなんて・・・


都営高輪台駅に向かっているとレトロな建築物が?高輪消防署(二本榎出張所)との事、場所がら何かしらモダンナ感じさえ受ける、昭和8年に落成の庁舎で当時は東京市全体が火の見櫓から見渡せたとの事である。中には展示室があり見学ができるためTV旅番組での紹介も多いようです。

消防署の隣の高輪警察署の裏手に高野山東京別院があります、今回の散策の中ではゆったり、広々している寺院で、お遍路さんの受け入れも出来るようである。桂坂・洞坂を通り東禅寺に入る、桂坂は大きい通りであるが洞坂は狭い通りで車が通れるのかと思う。

この辺、昔は海辺で、東禅寺からは東京湾が見渡せたのでしょう。山門の所に「最初のイギリス公使宿館跡」の石碑が建っており、境内は深い緑に囲まれ、中には三重塔があり当時が忍ばれます。

高輪警察署の通りに戻り、Mさんが幽霊地蔵のあるお寺へと光福寺へ、小さいお堂の中に祀られていましたが、何とも異様な感じがしました。この地蔵は、品川沖からあがり、死んだ母親に代わって子どもを育てたという伝えがあり、昔からある子どものために飴を買うという、飴買い幽霊の言い伝えと石の形状からも幽霊地蔵と呼ばれるようになったようです。
これで本日の田町から泉岳寺・高輪台の散歩は終了、味の素グループ高輪研修センター前を通り高輪台駅に向かう、この研修センターには「食とくらしの博物館」が併設され一般公開されている、創業者の私邸跡地で立派な門(保存されている)や塀に囲まれています。

Mさんの墓参りを兼ねての泉岳寺参拝が、月一回の散歩と同じとなり多くの寺院・史跡を訪ねることができました。

【その他の写真】





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