我孫子市の散策については、手賀沼や文人達の別荘などの散策の計画をしていて、今回、図らずも「JR駅からハイキング」のコースとなり参加した。
都内から水辺歩きを楽しむには我孫子が近い距離にある、ひところは汚い手賀沼だが綺麗になってきている。
我孫子市は、千葉県の北西部に位置し、東京都の都心から30~40Km圏内の都市で、利根川と手賀沼に挟まれ、なだらかな下総台地が東西に約14km、南北に4~6kmにわたってひろがり手賀沼沿いと利根川沿いは平らな地域となっている。人口約13万人、江戸時代より水戸街道の宿場町として栄え、数多くの文化人が環境の良い場所として手賀沼畔に住居や別荘を構え文化都市として「北の鎌倉」と言われた。
我孫子の由来は、古代において「我孫子」は氏(ウジ)や姓(カバネ)という、血筋や職種にかかわる苗字のようなものであり、人名として使用されていました。表記は異なりますが「阿毘古」「我孫公」という人の記録が残されています。古墳時代(3世紀から7世紀)にかけて日本列島で大きな権力を有した大王(オオキミ、のちの天皇家につながっていくとされる)や大和地方の有力豪族は、各地の地方豪族を支配下におさめる際に、豊かな土地を直轄地とし、そこに住む人々から貢納物を納めさせました。その際に土地やそこに住む人々に「我孫子」という名前が付けられたと考えられます。大阪や奈良をはじめ、全国各地に「我孫子」「安孫子」「吾孫子」などの地名や人名が認められるのはこのためであると思われます。(我孫子市)
我孫子駅で参加の手続きを済ませ最初の訪問先である「杉村楚人冠記念館」に。
「杉村楚人冠記念館」
明治末期から昭和前期の東京朝日新聞社で活躍したジャーナリスト、杉村楚人冠(本名・広太郎)の自宅を改修した記念館。杉村楚人冠は、新聞社に調査部や記事審査部を設けるなど、新聞業界を発展させた。
楚人冠記念館を出て「白樺文学館」に行く途中に小さい丘を上がると楚人冠公園があった。杉村楚人冠を顕彰している碑「筑波見ゆ冬晴れの洪(おお)いなる空に」が立っていました。かつては高台から遠くを望むことができたようですが、現在は木立で無理です。
「白樺文学館」
「白樺派」という集まりは、学校で教わりましたね。説明と言われるとチョット・・・
白樺派は、明治末期創刊の文学同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸思潮の一つで、理念や作風を共有した作家の人達です。大正デモクラシーなど自由主義を背景に理想、人道、個人主義的な作品を製作した。メンバーは 柳宗悦*1・志賀直哉・武者小路実篤などで、白樺派と呼ばれる文学者が手賀沼に住み、文学活動をおこなった。我孫子が拠点となった。
*1 柳宗悦については、「オンライン講座10 考現学の祖・今和次郎の描いた東北 2022.11.10」、『「東京ステーションギャラリー」と「将門塚」を散策 2022.9.24』についても参照して下さい。
白樺文学館の中に柳氏の掲示物があったので受付の方に地図をもらいコースを外れ見学を。柳宗悦の住まいは「三樹荘」という、林に囲まれた坂の階段を上がった所に三樹荘跡がありました。この坂は、天神坂と言い、かつては文人の多くが散歩したとのことです。受付の方の話のとおり、中は見学できません、表札を見ると他の方が住んでいました。三樹荘の名は、3本のスタジイから柳の叔父の加納治五郎に命名されました、3本のスカジイの木は長寿・叡智・財宝を象徴する木と言われています。多くの文人やバーナード・リーチ*2が訪れたとのことです。なお、柳が住んでいた建物は残っていないようですが、現在の建物もモダンな建物でした。
向かい側に公園があり、「加納治五郎別荘跡」がありました。我孫子に多くの文化人が住むようになったのは嘉納治五郎の影響と言われ我孫子市が保全しています。
*2イギリス人の陶芸家で、画家、デザイナーでもあった。白樺派や民芸運動にも関りが深く柳宗悦に協力した。
元のコースに戻り志賀直哉邸跡へ。
志賀直哉邸跡(緑雁明緑地)
「小説の神様」とも称される白樺派を代表する小説家。志賀直哉は我孫子で「城の崎にて」「和解」「小僧の神様」などを執筆。また「暗夜行路」をを執筆した書斎が保存されています。さらに道なりに歩くと「旧村川別荘」がある。
旧村川別荘
西洋古代史学者、村川堅固が建てた別荘。大正から昭和にかけての別荘地としての我孫子の様子を残している。
建物は、斜面上にありました。上がったところの和風の建物は母屋となっています。母屋は元々この場所にはなく、我孫子宿本陣の離れの建物を一部改修し移築しました、大きく変えた点は、元々は茅葺屋根を、後に瓦屋根に変えられましたが江戸時代の部分も多いです。和室には、細かい飾りや細工が見られます、大きい建物ではなく、こじんまりした建物です。
隣にあるのが新館です。昭和2(1927)年には、朝鮮半島での調査に際して、現地の建物から得た印象を元に新館を建てました。大正12年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしています。沼を見下ろす南側の展望を意識した大きなガラス窓や、寄木モザイクを配したモダンな床の作りが特徴です。角部屋からの窓を通しての景色は、絵画のようです、残念なことに今では、大きい建物ができ、当時のような景色は望めませんが、旧村川別荘は手賀沼の景色に溶け込んでいたことでしょう。
下総台地で以外に高低差がありました、また、別荘が高台に建てられ事もあり日常生活に不便さも感じました。自転車のご婦人が降りて押している姿もありました。
手賀大橋
我孫子市と隣の柏市を結ぶ全長415mの四車線のアーチ橋である。以前は二車線でそれ以前は手賀沼を結ぶ連絡船があった。橋から見える手賀沼の景色は壮観である、思わずこれが沼か?
この後のコースでは、3か所あるがここで疲労を考えて離脱、まだコースに入っていないが見どころとして武者小路実篤、水の館、鳥の博物館(工事中?)等があるが残念。
【参考資料】
・JR東日本
・ウイキペディア
・我孫子市
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