「大人の休日倶楽部」で ”長久保赤水と伊能忠敬”の講座が開催された。講演は、茨城大学名誉教授の小野寺淳氏である。
講演をまとめるのは、講演者の意図することと異なる場合があるので、私が調べたことをあわせて報告する。
茨城は、地図製作者が多い、その一人が長久保で地図では有名な人で、伊能との違いを話された。
シーボルトについて
シーボルトは、元々ドイツ人でオランダの東インド会社(世界初の株式会社)専属の医者として採用され。資料を母国に郵送していた。シーボルトは報告した「NIPPON]には地図の中には二つ伊能図と赤水図があった。シーボルトのNIPPONは分冊であるが、後にまとめられた。有名なシーボルト事件は、任期を終え帰国するさいに船が暴風雨により難破し積み荷が調べられ、持ち帰り品の中に禁制品の地図があり国外追放となった。連座として高橋景保は死罪(獄死)、他の者も処罰された。
伊能図は、海岸の測量により日本の地形が正確であるが内陸は正確ではなかった。東日本は自分の金で測量、西日本は幕府の依頼により大名が協力していた。
シーボルト「日本」を読んで、当時のロシア、イギリス、フランス、アメリカ等が日本との通商関係を結ぶため日本列島近海までやってきています。
地図の変遷
長久保赤水の前の地図は、「行基図」で諸国を俵あるいは卵状(楕円や円)で表したが、北が能登半島と思われており東西南北が違っていた、また、伝説上の国(島)があった。年代とともに実証されて一番正確な地図を作ってきた。(石川流宣・大日本国大絵図)
当時は、一般の人が知る地図と将軍が知りえる地図が違っていてもっと正確な地図を持っていた。一般の人と差があった。そういう中で赤水図が出版された。
領地を与えるには地図が必要で、豊臣秀吉は検地をおこなった。秀吉は、完成しないで亡くなり、そのあと徳川家康が利用し、家光の代で正確になってきた。しかし方言により地名が違っていたりし争論だらけになった。
長久保赤水
長久保赤水の地図は、初めて緯度経度を入れて出版した。それより前にも緯度経度を入れている地図があった。当時、緯度は正確な部分があったが、経度の基準がなく京都御所を「0」とした。球体のため狭まる方法が不明であった。韓国と論争中の竹島なども入っていた呼名は松島であった。長久保の地図は改訂版が幕末まで続いた。
伊能忠敬と測量
長久保赤水の地図は、絵図から測量図の過渡期の地図で、測量家伊能忠敬の地図へと進んでいくが、それより25年早い1796年に「琉球国之図」が製作されていた。伊能忠敬も幕府の援助により測量も進が、加賀藩では実測を断られた、優れた技術を持った人が全国的には多くいた。伊能や長久保が名が残ったのは伊能は幕府が関わっていたからで、長久保は出版により名が残った。
まとめ
日本地図で知られているのは伊能忠敬で、日本で初めて測量し、1821年に伊能忠敬の死後に弟子たちによって「大日本沿海輿地全図」(通称・伊能図)を完成させた。伊能図ができる42年前(1779年)に長久保赤水は、「改正日本輿地路程全図」(通称・赤水図)を作り上げた。赤水図の特徴は伊能のように実測ではないが情報の細かさや高い利便性にある。伊能図が精度が高いが内陸部などは赤水図の方が山や河川名など内陸の情報が豊富で城下町や古戦場などを分かりやすく示している、長久保は友人が多く、旅人にもお茶をごちそうして話を聞くなど、情報収集能力にたけていた。精密度は伊能図と比べ遜色がなく、目立つ違いは当時の蝦夷地(北海道)が一部しか描かれていない程度である。小さく折り畳んで持ち運びができ、観光ガイドブックのはしりとも言える。伊能忠敬が測量の際に携帯したと記録があり、吉田松陰は兄への手紙で「これがなくては不自由」と記している。
どちらがの方がと、云々すべきではないが、両者とも地図製作者として今日の日本の地図を考えると実績を残したことを忘れてはならない。
【参考資料】
・大人の休日倶楽部 講座
・高萩市役所
・伊能忠敬記念館
・国土地理院
・ウイキペディア
・「伊能忠敬の全国測量」渡辺一郎編著 伊能忠敬研究会発行
・東京新聞
・日本経済新聞
・身近な土木HP
・BuzzTrend