こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

病院で死ぬことと病理解剖・・・注3)病理解剖はなんのために行うのか?

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
病理解剖は完璧ではない。窒息にしても、不整脈にしても、行った医療行為が、絶対にその死因に結びついているかを証明することはできない。だから、医療ミスはせいぜい、手術の失敗、患者の取り違え、投薬ミス、などに限られる。

人が死ぬとき、その原因がわかるときと分からないときがある。
出血多量による死亡でも、事故などで大きな血管が体の表面から切られた場合は、原因として確定できるが、同じ事故でも体の中への出血であれば、解剖をしないとわからない。
あざでもがあればわかるが、そういったものがわからいときもある。そんなとき、もしかすると、”事件性なし”と警察官が判断して終わってしまう、ということもある。
病院で死ぬと、病理解剖を行うが、病理解剖の目的はそもそも、「その人の死を通じて、未来の医療に役立てるため」だ。医療係争のためではない。
私は医学の発展に尊いご協力をいただいた、ご遺族にも感謝し、ご遺体にも畏敬の念を持って解剖にあたる。
”医学の発展”ということは、現代の医学が完璧ではない、ということを示している。もちろん完璧ではない。というより、分からない事だらけだ。脳などのことはほとんどわかっていないし、心臓がどのくらい弱っていると止まるのか、なんてことも厳密にはわからない。これに、各種の治療、薬剤が加わってくるのだから、それぞれがどんな影響を、時間的、空間的に及ぼしあっているのか、なんていうことは本当のところ、わからない。

だから、病理解剖を行って医学の進歩に役立てていくのだ。
病理解剖は医療ミスを見つけるためのものではない。病理解剖を行って、病気本来の不利益、以外の原因が発見されたときに、医療ミスが明らかになる、かもしれないのだ。

病理解剖は病気の原因を明らかにすることで、医療の、医学の向上に資するためにおこなうべきものだと考えている。
そして、そのことは、”医療亡国論”の観点からはもっとも理解されておらず、病理医自身が、そのモチベーションを保ちづらくなっている。

病院で死ぬことと病理解剖・・・注2) なぜ、私の代わりの病理医はいなかったのか?

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
日本の病理専門医は2000人に満たない。その病院を関連病院として有する大学病院にも病理医はせいぜい10名程度しかいない。その病理医の殆どは、生きている人間の検査(病理組織検査)に駆り出され、院外の金にならない、トラブルがらみの持ち込み解剖を進んでやろう、という病理医はいないため、私以外にいない。ということになる。

今回の医師不足対策でも小児科、産婦人科が主だ。

病理医の仕事は地味で、患者からの賞賛とは無縁だ。
病理診断の結果を話すのは臨床医の仕事だと思われていて、患者は機械が行う検査結果と同列のものとして、結果を臨床医から聞く。臨床医は、よほどの訓練をしたもの以外、組織の標本は読めないのに、あたかも自らが診断をしたかのように、”自分で解釈した”結果を患者に説明する。

先日、病理外来で患者に直接説明することがあったが、病理診断が最終診断である、という緊張感のなかで説明した。生検結果にせよ、手術結果にせよ、もちろん病理解剖にせよ病理診断結果に疑問がある場合、臨床医にではなく、診断を行った病理医から直接説明をしてもらうようにした方がいい。

病院で死ぬことと病理解剖・・・注1) 日本の医療はなぜ、何も変わらないのか

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
日本の医療は”生きている人間”には、お金を取れる、ということで関心があるが、一旦死ぬと、次の瞬間からは、それまで嫌というほど撮っていたCT画像一枚撮らなくなる。我が国では人がなぜ死んだのか?ということに対する関心は殆どない。そのため、病院で死んでも、死んだらどうでもいいという医療がまかり通っている。臭いものに蓋、ということを言っているのではない、亡くなったのは仕方ないにしても、それを次の医療につなげていくという、医師としてのモチベーションが無いのだ。だから、病理解剖を行いたい、と思う臨床医はすごく少ない。
だから、病理解剖はみんな嫌いだ。臨床医が嫌がるから、解剖数は減るし、そもそも病理解剖は病院の持ち出しなので、病院にとってはやらないで欲しいことだ。立会う(金を生む)臨床医の時間をとるし、病理医なんていうものを雇わなくてはいけないし、解剖室や標本を作る設備を整えないといけないし・・・
病理医自身は病理解剖を通じて、病気の原因、命の終わりを知るために仕事をしているので、病理解剖は嫌いではない。でも、取り巻く環境がこのような状況であるため、金になる生検を好んで、解剖を自嘲気味に忌避する空気はある。
我々病理医は、病院にとって”不採算部門”の代表格として扱われており、国公立の公的病院においても状況は同じである。我が国の病理を取り巻く環境は完全に負のスパイラルに入っている。

一言言っておくと、そのような中でも、病理解剖を行わせて欲しいという、医療機関は、病理解剖のシステムが有ること自体すごいことだし、証拠を自ら保全しようという意志があるという点で、何もしない病院とは比べようがないほどすごいことだということを知っていて欲しい。

病院で死ぬことと病理解剖

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
私がこれまでの人生で後悔していること、は多々あるが、その中でも心が締め付けられるようにつらくなることがある。2年前に亡くなった義理の父のことだ。

義父はいくつかの基礎疾患があり、体が弱っていたのだが、それでもすぐに亡くなるような状況ではなかった。リハビリ病院に転院してから2週間ほどたったところだろうか、風邪をこじらせ、急性期病院に転院した。
そしたら、翌日、亡くなった。

どう考えても、不整脈のコントロールが上手でなかったように思われ、私も担当医に問いただそうと思って、説明に臨んだのだが、担当医は延命のためにはこうするしかなかった、とかそういったことばかりに話をそらし、原因については「心臓が弱っていたから」ということばかりだった。

私の経験からも、担当医の言う事は何となく分かるし、解剖を行ってもおそらく予想通りの所見が得られるものと思った。そもそも、普段からほとんど勉強していないような受け応えしかできない医者に何を言ってもしょうがないと呆れてしまった。でも、私が病理医だと名乗っていたので、「あの、先生、病理解剖は?」といったところ、「それは、ここではできません、大学病院まで運んで、そこでやらないと。すぐにはできないので、明日になるでしょうかね」と回答された。
この病院には解剖室はないのか?と尋ねようかと思ったが、総合病院といっても、解剖室なんて、有るか無いか分からないし、あったところで、物置のようになっているだろうし、病理医がここ(私)にいても、介助の臨床検査技師もいる訳ないし、ホルマリンだって十分は無いだろう。と思うと、いざ自分でやろう、という気も萎えてしまった。
闘病生活の長さ、仮に今回亡くなっていないくても、あの体で社会復帰は果たして出来ていただろうか?これで死因が医療ミスだとして、この目の前にいる無能な医者を吊るし上げたところで、日本の医療の何が変わるというのだ(注1)。そして、義父の病理解剖を行うのは私以外にいないという状況下で(注2)、”不整脈”という難しい状況を医療ミスとして証明できるのか(注3)?という、絶望的な考えから、解剖は依頼しなかった。
でも、いま、それでも、解剖を行っておけばよかったと思う。なぜ、義父が亡くなったのか?全てがわからなくても、その一部だけでも解明しておくべきだった。医療ミスかどうかではなく、なぜ、亡くなったのか?そのことを知ろうとする意志を持っておくべきだった。そう後悔している。
私自身が病理解剖のことを全くわかっていなかった。私自身の存在意義を全くわかっていなかった。
この先も、より良い病理医でいたいと思うが、日本の医療がどの方向に向かっていくのか分からない状況の中で、私はどうすればよいのか、自問する日々が続くだろう。

病理解剖と病理検査

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
植木屋さんに芝を貼ってもらって、今日で外構も終わり。
とりあえず、我が家も完成

家の中から見てもらおうと、植木屋さんに上がってもらい、しばし歓談。
そこで、「病理っていうのは血液とか見るんですか?」と聞かれて、「まあ、血液”も”みますが、ほかに、ほくろとか、がんとか、そういったものを見たり、腎臓とか肝臓とかが調子悪かったら、そういったものがどんな状況にあるかを、顕微鏡で調べるんですよ」とお話した。
「生きている人、の体の一部をしらべて、これらかの治療に役立てる、そういうのを病理検査、っていうんですよ。もうひとつは亡くなった方を調べる、これが病理解剖っていうんです。解剖は、その方がなんで亡くなられたのか?を調べるんですよ」と、続けた。
病理検査というものが一般の人には知られていない。
手術をする外科医とか耳鼻科医が、患者さんの体の一部から組織をとる。その組織がただ炎症で腫れているのか、それとも、他の理由で腫れているのか、それを調べるのが病理(組織)検査で、病理医、という専門の医者が行う診断だ。
だから、結果を説明している医者は自分で診断をつけたわけではない。私たちの病院では病理外来で、直接患者さんに説明する機会を作っているが、他の病院ではそのようなことは殆ど行われていない。
だって、病理医が少なすぎる(日本全国に2000人いない)し、臨床医にとっては別の医者が入ってくるのを嫌がる人もいるし。ただの炎症だったら、病理医がわざわざ出ていく必要はないが、ちょっと込み入った病気の場合は、病理医に相談してみるのもいいかもしれない。


奥行きある標本

2010年01月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
木の枝が重なっているのがおわかりだろうか。
というか、何本もの木が平面上に並ぶわけがない。これが写真。
だけど、病理のガラス標本には1枚3μm位の厚みがある。この厚みというのが問題で、細胞のおおきさが、赤血球で9μmくらいで、厚い標本ではこれが重なって、細胞が2個くらい見えて、”奥行きのある”標本になってしまう。
そうなると大ごとで、細胞が実際よりもたくさんいるようにみえてしまい、診断に困ってしまうことがあったりする(細胞診、という分野ではこの奥行きが大事になってくるが、標本の作り方がそもそも違う)。
標本を作るのはほとんどが、臨床検査技師という職種の人で、上手な人は(気温に応じてまで)均質な厚さの標本を作ってくれるが、そうでもないとバラバラで、結構困る。

そうは言っても、病理医が標本まで作っている暇は無いので、お願いしている。より良い診断を目指して、みんなでそれぞれのパートを頑張っている、というのが、病理診断の一面だ。
奥行きのある標本を作るか、そうでないかは、臨床検査技師の双肩にかかっており、病理医がクオリティーの管理を常日頃から期待している点の一つだ。