病理解剖は完璧ではない。窒息にしても、不整脈にしても、行った医療行為が、絶対にその死因に結びついているかを証明することはできない。だから、医療ミスはせいぜい、手術の失敗、患者の取り違え、投薬ミス、などに限られる。
人が死ぬとき、その原因がわかるときと分からないときがある。
出血多量による死亡でも、事故などで大きな血管が体の表面から切られた場合は、原因として確定できるが、同じ事故でも体の中への出血であれば、解剖をしないとわからない。
あざでもがあればわかるが、そういったものがわからいときもある。そんなとき、もしかすると、”事件性なし”と警察官が判断して終わってしまう、ということもある。
病院で死ぬと、病理解剖を行うが、病理解剖の目的はそもそも、「その人の死を通じて、未来の医療に役立てるため」だ。医療係争のためではない。
私は医学の発展に尊いご協力をいただいた、ご遺族にも感謝し、ご遺体にも畏敬の念を持って解剖にあたる。
”医学の発展”ということは、現代の医学が完璧ではない、ということを示している。もちろん完璧ではない。というより、分からない事だらけだ。脳などのことはほとんどわかっていないし、心臓がどのくらい弱っていると止まるのか、なんてことも厳密にはわからない。これに、各種の治療、薬剤が加わってくるのだから、それぞれがどんな影響を、時間的、空間的に及ぼしあっているのか、なんていうことは本当のところ、わからない。
だから、病理解剖を行って医学の進歩に役立てていくのだ。
病理解剖は医療ミスを見つけるためのものではない。病理解剖を行って、病気本来の不利益、以外の原因が発見されたときに、医療ミスが明らかになる、かもしれないのだ。
病理解剖は病気の原因を明らかにすることで、医療の、医学の向上に資するためにおこなうべきものだと考えている。
そして、そのことは、”医療亡国論”の観点からはもっとも理解されておらず、病理医自身が、そのモチベーションを保ちづらくなっている。
人が死ぬとき、その原因がわかるときと分からないときがある。
出血多量による死亡でも、事故などで大きな血管が体の表面から切られた場合は、原因として確定できるが、同じ事故でも体の中への出血であれば、解剖をしないとわからない。
あざでもがあればわかるが、そういったものがわからいときもある。そんなとき、もしかすると、”事件性なし”と警察官が判断して終わってしまう、ということもある。
病院で死ぬと、病理解剖を行うが、病理解剖の目的はそもそも、「その人の死を通じて、未来の医療に役立てるため」だ。医療係争のためではない。
私は医学の発展に尊いご協力をいただいた、ご遺族にも感謝し、ご遺体にも畏敬の念を持って解剖にあたる。
”医学の発展”ということは、現代の医学が完璧ではない、ということを示している。もちろん完璧ではない。というより、分からない事だらけだ。脳などのことはほとんどわかっていないし、心臓がどのくらい弱っていると止まるのか、なんてことも厳密にはわからない。これに、各種の治療、薬剤が加わってくるのだから、それぞれがどんな影響を、時間的、空間的に及ぼしあっているのか、なんていうことは本当のところ、わからない。
だから、病理解剖を行って医学の進歩に役立てていくのだ。
病理解剖は医療ミスを見つけるためのものではない。病理解剖を行って、病気本来の不利益、以外の原因が発見されたときに、医療ミスが明らかになる、かもしれないのだ。
病理解剖は病気の原因を明らかにすることで、医療の、医学の向上に資するためにおこなうべきものだと考えている。
そして、そのことは、”医療亡国論”の観点からはもっとも理解されておらず、病理医自身が、そのモチベーションを保ちづらくなっている。