■ 本格的でない旅 2015/02/12
旅行エッセイストの宮田珠己氏が「本格的でない旅」というタイトルでお話していたことに興味を持ちました。その要約を、氏の文章を用いて、以下に掲載いたします。
なぜ本格的でない旅の話が、旅の魅力に迫ることになるのか、疑問に思われるかもしれませんが、そういう人にこそ聞いていただきたいと思います。旅といってもいろいろありまして、家族旅行もあれば、新婚旅行、社員旅行、一人旅もあります。週末にちょっと近所の保養地へ出かける旅もあれば、団体ツアーで名所を回ったりですとか、あるいは何ヶ月もかけて船で世界一周する、また、終わりを決めずに気の向くまま、ふらふらとそのとき行きたいところへ行くような自由な旅もあります。
私(宮田珠己氏)は、20代、30代の頃、よくひとりで海外旅行をしました。当時私は、自分がやっているのは単なる観光旅行ではない、そう思っていました。団体ツアーでは行かないような小さな町を訪れたり、そこで現地の人と仲良くなって家に泊めてもらったり、ピクニックに連れて行ってもらったこともあります。
そういうことはツアーではできませんので、自分はツアーに参加するような人たちより一段、質の高い旅をしていると自負していました。結果として、自分がいかに珍しい体験をしたか、あるいは人の行かないところへ行ったか、といったことなどで、旅で出会った日本人旅行者同士が張り合うような状況も生まれていました。
そのほか、バックパッカーでなくても、ただの観光旅行なんてくだらないと考える人に、ときどき会うことがあります。そういう人に言わせれば、観光旅行などは本格的な旅とは言えず、表面的だというわけです。
そんな思い込みのせいで、本当は自分が行きたいと思っていない場所に無理やりに出かけてみたりするのは、不毛な話だと思います。そこが誰もが行くような有名な観光地であろうとなかろうと、どうでもいいのです。
知らない世界を見ることで自分の視野を広げること、日常では出会うことのない人と触れ合うことで新しい価値観を知ること、そういった経験はとても有意義であり、たしかに価値のあることだと思います。
けれど、何かを得て帰って来なければ、何らかの人間的成長が伴わなかったら、その旅は意味がないと考えるのであれば、それは旅の本質を実は見逃しているのではないかと思うのです。
知識が増進したり、価値観が変わったりしなくても、そのときその瞬間に自分がその場所にいたということ、それだけで意味があるのではないかと私は考えています。いや、たとえ仮に、知識の増進や価値観の変化が旅の重要な要素だとしても、それはもうその場にいるというだけですでに達成されていると言えるのではないのではないでしょうか。
けれど、頭で理解した知識と、現地で生で感じた情報には、その濃さ、密度において、大きな違いがあります。私は先日、インドのラダックという地域を旅行しました。ラダックはチベット高原の一部で、さほど多くの日本人観光客は訪れませんが、簡単に行くことができ、辺境というわけではありません。そんなラダックを観光する途中で、高度5000メートルの峠を越えたことがありました。
もちろん国内旅行でも同じことです。たしかに観光地というのは、行ってみますと、そこらじゅうに電線が張り巡らされて景色が台無しになっていたり、お土産屋がたくさん並んで騒々しかったり、観光客がいっぱいいて雰囲気に浸れないことがあります。
ひょっとしたら百年後の未来人から見れば、お土産屋が一番面白いかもしれません。何かを得てこなければ意味がないとか、ただの観光旅行はつまらないとか、そんなふうに考えることはなくて、重要なのは、とにかく現場に立つことです。
氏のお話において、「その場に立つこと」が重要であるということには共感できます。私自身、海外数十か国を訪問、何度も言っている国も多数あります。それぞれの地で、いろいろな場を経験してきました。例えば「マイナス40度C」という超寒冷経験を、アメリカのミネソタで経験しました。日は高く出ているのですが、5分も歩いていられません。
このような経験は、文字や映像で見ても伝わってきません。かといって、それが何の意味があるのか、と言われましても説明のしようがありません。でも、体験をしてきているのです。その点が、宮田珠己氏に共感できることにつながると思います。
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