神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

天水田圃5

2017-04-11 06:59:04 | 善福寺川3

 天水田圃を灌漑していた水路の三本目は、→ 「段彩陰影図」の西側の谷頭からのもので、こちらが本来の主流だったようです。→ 「田端村絵図」には、青梅街道ではなく下荻窪村方面からの水路と水田が描かれています。隣村となるため絵図からは切れますが、谷頭には人工的な池が掘られていたようで、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は「江戸時代に四丁目二二、二三の低地に直径約五メートルの池二ヶ所を人工的に掘り、湧水を得て下流低地に水田を造成した。今の大田黒公園北側である」と書いています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の合流地点に戻り、左折して水路を含んで幅広になった道路を西に向かいます。

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    2. 左手は区立太田黒公園です。音楽評論家の大田黒元雄氏の屋敷跡地にあり、谷筋の起伏を利用した→ 回遊式庭園が見所です。

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    3. 公園前の道路を越えます。右写真は南側からのショットで、谷筋が横切っているのが分かります。

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    4. 車止め、カラーブロックの遊歩道がワンブロックあった後、狭い路地に連続します。

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    5. 右折後、一般の道路に突き当たって終了です。「杉並の通称地名」の書いている(荻窪)4丁目22、23番あたりです。 

天水田圃4

2017-04-10 06:57:53 | 善福寺川3

 天水田圃を灌漑していた水路をたどり、三本あるうちの真ん中のものの続きです。その先端が青梅街道に向かっていることから、「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区郷土博物館)では、「千川用水を分流したと思われる」と書いています。ただ、文献にその記載はなく、街道沿いの雨水の排水溝だった可能性も捨てきれません。なお、この水路の先端部分は、現行の住居表示ではまったく無視されていますが、下荻窪村と田端村(明治に入り、井荻村大字下荻窪と杉並村大字田端)の村境と重なってるのも特徴です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の続きで、建物に挟まれたコンクリート蓋ですが、途中で通り抜けできなくなります。

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    2. 迂回した先で見つけたもので、1.からは左折、右折のクランクになっているようです。

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    3. ここも迂回して見つけたものです。この先開渠の排水溝が断続的に続きますが、通り抜けできません。

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    4. 読書の森公園に向かいます。公園の整備に伴い、その西縁に沿っていたものは撤去されたようです。

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    5. 右手は荻窪体育館です。青梅街道まで100mほどですが、この先の痕跡は不明です。 

天水田圃3

2017-04-08 07:14:52 | 善福寺川3

 天水田圃を灌漑していた水路をたどる三回目で、前々回最後の合流地点に戻り直進します。区立太田黒公園の脇を抜けたところに、もう一つの合流地点があり、右手から合流するコンクリート蓋の路地をさかのぼります。全体で三本あるうちの真ん中のものですが、前回の水路の西側数十メートルのところを並行しており、→ 「段彩陰影図」のY字型の谷筋のうち右手のに属していて、元は同じ田んぼの両縁に沿っていたのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 最初の合流地点に戻り、車止め、カラーブロックの遊歩道風を北に向かいます。

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    2. 区立大田黒公園の横に差し掛かり、突き当りを左折、右折のクランクでやや左手にシフトします。

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    3. 右手に車止めが見えていますが、その奥は前回の水路で、40mほどの間隔です。

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    4. もう一つの合流地点です。右手から合流するコンクリート蓋の路地を追います。

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    5. 建物の間を縫ってしばらく続きますが、段々狭くなっていきます。 

天水田圃2

2017-04-07 06:16:37 | 善福寺川3

 荻窪団地の外周道路となった用水堀に、左岸から合流する水路をたどっての二回目です。→ 「段彩陰影図」で見るように二つの谷頭が途中合流する、Y字型の谷筋になっていますが、ここに二ないし三本の水路が流れていました。現在確認できるのは三本の水路が二本、一本と合流していく形で、今回はその最後の合流地点から右折し、左岸段丘沿いの水路をさかのぼります。なお、下掲地図と同一場所、同一縮尺の→ 「迅速測図」を見ると、今回の水路の先端付近に池が描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回最後の合流地点から右折、左折のクランクで東側にシフトしたところからです。

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    2. 水路単独と思われる狭い路地になります。右手に崖面が見えていて、左岸段丘に沿っているのが分ります。

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    3. 車止めが見えていますが、その先通り抜けできなくなります。ワンブロック先に回り込みます。

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    4. 一般の道路のようですが、正面に車止めが見えます。ただ、その先は通行できません。

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    5. 通行出来た数年前の写真です。杉並区中央図書館と隣接する読書の森公園に突き当たって終了です。 

 


天水田圃

2017-04-06 06:02:38 | 善福寺川3

 田端堰で分岐した田端田圃を灌漑する用水堀には、途中左岸から水路が合流していました。→ 「東京近傍図」では先端はY字型、途中から二本が並行していますが、現行の水路跡は先端が三本になっていて、順次合流して一本にまとまる形です。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、この水路の周辺の水田は天水田圃と呼ばれていました。→ 「田端村絵図」にも書き込みがありますが、天水とは雨水、湧水などを指す言葉で、天水田圃には旱魃の際は収穫出来ないといった、マイナスのニュアンスがありました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 右カーブする幅広道路の右手は荻窪団地の敷地ですが、目下シャレール荻窪として建て替え中です。

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    2. 車止め、カラーブロックという、一目瞭然の水路跡が合流しています。

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    3. 水路らしく蛇行する路地が150mほど続きます。「下水道台帳」には「水路敷」となっているところです。 

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    4. 右手からの合流のあるところです。右折、すぐに左折して東側の流れを追います。 

田端堰2

2017-04-05 06:27:23 | 善福寺川3

 田端堰で分岐した用水堀を追います。昭和30年代に田端田圃が宅地造成されるまで、その灌漑用水路として現役だったため、荻窪団地の外周道路となったいまも、段丘沿いを蛇行する水路の様子を留めています。荻窪団地が完成した後も、スリット状の蓋のある開渠の排水路として存続していた時期があり、都の下水道台帳を見ると、現在も善福寺川上幹線と重なる部分や、水路敷と書かれたところが残されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年第二回修正) / 上高井戸」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 荻外荘公園を過ぎた先も、車止め、カラーブロックの遊歩道風が続きます。

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    2. 右手の本流との間には都営アパートがあり、最近建て替えられました。

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    3. 車止めはここで終了、幅広の道路の一部となります。なお、善福寺川上幹線は右折し、松渓橋方向に向かっています。 

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    4. 昭和30年代の荻窪団地造成時に整備された幅広道路で、水路はその左手にありました。 

田端堰

2017-04-04 06:23:01 | 善福寺川3

 春日橋のすぐ下流に堰があり、左岸に用水堀を分岐していました。善福寺川流域では最大規模(およそ18ヘクタール)を有する田端田圃を灌漑していたため、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると「田端堰」と通称され、また、「荻窪風土記」(昭和57年 井伏鱒二)にも釣りの穴場として度々登場、「入沢別荘(後の荻外荘)の下手のドンドン」と呼ばれているところです。なお、田端田圃はその名の通り田端村に属していましたが、現行の住居表示では荻窪3丁目となり、昭和33年(1958年)竣工の荻窪団地(目下UR都市機構の「シャレール荻窪」に建て替え中)の敷地となっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 分岐した直後の水路跡は、50mほどの細長い公園、荻窪第二児童遊園なっています。

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    2. 一般道路の幅広歩道となった直後、右手に車止めの路地が見えます。本流との連絡水路跡です。

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    3. 対岸は界堀の合流地点です。このラインが下荻窪と田端の村境でしたが、現行の住居表示には全く反映されていません。

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    4. 左手は荻外荘跡地の一部を整備したもので、最近公開されました。 

 <荻外荘>  「荻窪風土記」にも書かれていた荻外荘(てきがいそう)は、左岸段丘斜面に位置していて、昨日UPの→ 写真の左端にその先端を見せているのも、荻外荘の敷地にある松の林です。元は大正天皇の侍医だった入澤達吉博士の別邸でしたが、昭和12年(1937年)に公爵近衛文麿の別荘となり、元老西園寺公望によりそう命名されました。文字通り荻窪の郊外の意と思われます。同年に第一次近衛内閣が成立し、日中戦争から第二次大戦に至る過程で、荻外荘が第二の官邸の役割を担うことになり、マスコミ報道を通じて全国区の知名度になりました。

 


田端村用水

2017-04-03 07:44:50 | 善福寺川3

 「新編武蔵風土記稿」は田端村の田用水について、「遅野井村善福寺池の末流なり、下荻窪村より来り、村の中ほどを一町許ながれ、成宗村に達せり」と書いています。左岸の田端田圃(本村田圃)を灌漑したのは下荻窪村にあった田端堰で分岐した用水で、これには下荻窪村との村境を流れる小支流(天水田圃)が合流していました。一方、右岸はやはり下荻窪村にあった薪屋の堰からの用水で、こちらにも村境を流れる小支流(界堀)が流れ込み、また田端村に入ってから二、ないし三ヶ所の堰からの合流もありました。下掲「村絵図」で、最上流の山神社下のもの、及び上流から三番目のものです。

 

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    ・ 「田端村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「田端・成宗村村絵図」を元に、田端村を中心にその堰と田用水を強調したイラストになっています。(東の飛地、字関口は範囲外となっています。) 

 「村絵図」には堰が四ヶ所描かれていますが、最下流の権現社下のものと上流から二番目のものは、主として成宗村にかかわっていました。「新編武蔵風土記稿」は同村の田用水に関し、「此流(善福寺池流)に設たる堰四ヶ所あり、一は西の方字権現下にあり、一は天神下にあり、余二ヶ所は小名尾崎の内にあり、共に自普請所なり」と書いています。うち権現下のものは明らかですが、もう一の天神下は天神社(現田端神社)の西にあり、左岸に用水を分岐しているもので、天保新堀用水の際は広場堰として登場しました。

  

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    ・ 田端堰  春日橋からのショットです。田端堰で分岐した用水堀跡は、細長い児童遊園になっており、その先は荻窪団地(シャレール荻窪)の外周道路に連続します。

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    ・ 広場堰  大谷戸橋からのショットです。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、この付近は広い耕地の意で広町と呼ばれました。

田端村

2017-04-01 06:42:39 | 善福寺川3

 「田端村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱を伝へず、村名の起詳ならず、此村昔岡部外記忠吉へ加増として賜はりしと云、・・・・土性は野土にして陸田多く水田少し、地形高低あり、水田はその低き所にあり、ゆへにしばしば水損の災をかうむる、又旱損の患もすくなからず、村内に青梅村への街道あり、西の方成宗村より入東の方馬橋村に達す、民家七十三軒、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」) なお、最後の青梅街道に関する記述は、東方にあって成宗村に囲まれた飛び地(小名関口)についてのもので、本村は青梅街道からわずかに離れていました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量」の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。なお、オレンジ細線は杉並村当時の村境、大字境です。

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    ・ 田端神社  「新編武蔵風土記稿」には「天満宮 小名田端にあり、此所の鎮守なり」と書かれています。創建は応永年間(1394~1427年)と伝えられ、境内からは縄文時代中期(4500年前)の遺跡が発掘されています。

 「新編武蔵風土記稿」によると、田端村には関口、日性寺、高野ヶ谷戸、大ヶ谷戸、田端の小名があり、各々に鎮守が祀られていました。それらが、明治末に本村である小名田端の鎮守、北野神社(天満宮)に合祀され、全村の鎮守の意で田端神社と改称されたようです。それ以前に、田の端にあることから田端神社と通称されていたとの説もあり、とすると、それが地名由来となった可能性もあります。

 

 <大ヶ谷戸と高野ヶ谷戸>  ともに田端村の小名である大ヶ谷戸(おおがいど)と高野ヶ谷戸(こやがいど)の谷戸ですが、通常は「やと」と読むところを「いど(いと)」と読んでいました。前者は善福寺川本流を右岸から望んでおり、後者は下荻窪村との境を形成し、左岸の田用水に流れ込んでいた小支流の流域でした。ここから「杉並風土記(上)」(森泰樹 昭和52年)は、大きい谷戸と小さい谷戸の意の、対となる地名だったものと推測しています。なお同書によると、飛地の小名である関口は、阿佐ヶ谷のパールセンター(権現道)入り口付近にあったとされる、鎌倉古道に設けられた関所が由来で、一方、高井戸村との境に位置する日性寺には、同名の廃寺があったことが「新編武蔵風土記稿」に書かれています。