「田端村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱を伝へず、村名の起詳ならず、此村昔岡部外記忠吉へ加増として賜はりしと云、・・・・土性は野土にして陸田多く水田少し、地形高低あり、水田はその低き所にあり、ゆへにしばしば水損の災をかうむる、又旱損の患もすくなからず、村内に青梅村への街道あり、西の方成宗村より入東の方馬橋村に達す、民家七十三軒、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」) なお、最後の青梅街道に関する記述は、東方にあって成宗村に囲まれた飛び地(小名関口)についてのもので、本村は青梅街道からわずかに離れていました。
- ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量」の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。なお、オレンジ細線は杉並村当時の村境、大字境です。
- ・ 田端神社 「新編武蔵風土記稿」には「天満宮 小名田端にあり、此所の鎮守なり」と書かれています。創建は応永年間(1394~1427年)と伝えられ、境内からは縄文時代中期(4500年前)の遺跡が発掘されています。
「新編武蔵風土記稿」によると、田端村には関口、日性寺、高野ヶ谷戸、大ヶ谷戸、田端の小名があり、各々に鎮守が祀られていました。それらが、明治末に本村である小名田端の鎮守、北野神社(天満宮)に合祀され、全村の鎮守の意で田端神社と改称されたようです。それ以前に、田の端にあることから田端神社と通称されていたとの説もあり、とすると、それが地名由来となった可能性もあります。
|