神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

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上荻窪村境

2015-04-25 07:17:09 | 千川用水2

 「新編武蔵風土記稿」の上荻窪村の項に、「八幡社 除地、二町三段三畝七歩、西の方遅野井村界ひにあり、村の鎮守なり・・・・鎮座の年代詳ならず」とあるのが、荻窪八幡神社です。社伝では1100年前の宇多天皇の時代の創建とされ、永承6年(1051年)、源頼義が奥州遠征の途中戦勝を祈願したとも伝えられています。境内西で遅野井村(上井草村の別名)と接し、また北側も青梅街道を挟んで上井草村で、上荻窪村の北西角に位置していたことになります。

 

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    ・ 青梅街道  桃井3交差点から荻窪方面です。右手やや先に荻窪八幡神社、左手は日産自動車の工場だったところで、その広大な敷地は現在、スーパーやマンション、防災公園となっています。

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    ・ 青梅街道  八幡神社境内の西側に沿った村境は、 荻窪消防署前で青梅街道に出て、街道沿いに東に向かいました。井荻村(のち井荻町)の大字上井草、上荻窪の境に引き継がれましたが、現在は意味を失っています。

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    ・ 荻窪八幡境内  文明9年(1477年)、太田道灌は豊島氏の居城、石神井城を攻めるにあたり、当社で戦勝を祈願し槇の木を献植、「道灌槇」として今に伝わっています。

 <横切り橋>  水車にかかわる嘉永2年(1849年)の→ 絵図では、青梅街道の南側に沿っていた七ヶ村分水が、街道を横切り北側にシフト、途中に橋も描かれています。一方、杉並区教育委員会発行の「杉並近世絵図」に収録された「遅野井村絵図」(文化3年 1806年)は、その場所を上井草、上荻窪両村の境として描いています。善福寺川という自前の水源を擁し、七ヶ村組合に加わっていなかった上荻窪村なので、その村域を避けるためのシフトだったのかもしれません。なお、(「横切り橋」というそのままのネーミングの)石橋の欄干が、近くの桃井第一小の校庭に保存されていると、杉並区立郷土博物館「杉並の川と橋」に書かれていますが、校庭内に立ち入っていないため未確認です。