神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

井草川遊歩道2

2015-11-17 09:11:15 | 妙正寺川1

 昨日UPの→ 「空中写真」にも写っていますが、上井草球場(現上井草スポーツセンター)周辺の道路は碁盤の目状に整備され、そこまでほぼ直線で東に向かっていた井草川は、球場の東南で北に向きを変え蛇行しながら北上しています。蛇行とはいっても各々の区間は道路と並行しており、むしろクランクを重ねながら北上している、といったほうがいいかもしれません。本来の流路を描いていると思われる、→ 「東京近傍図」と比べてみると、人工的に改修されたのは明らかで、ここに大正末から昭和の初めにかけて行われた、井荻町の土地区画整理事業の成果が読み取れます。

 

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    ・ 井草川遊歩道  → 左手に上瀬戸公園や防災備蓄倉庫のある一角です。区画整理時、三谷小学校からここまで、二百数十メートルの側流が設けられました。

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    ・ 井草川遊歩道  「東京近傍図」のほぼ中央で、東から北に向きを変えているところです。ここから左折、右折のクランクが連続、全体として東北に向かいます。

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    ・ 瀬戸原上橋  上掲写真の左折の先です。瀬戸原上橋は眼鏡橋とも呼ばれていました。コンクリートヒューム管を利用していたため、その丸い形状からの名前です。

 <井荻町土地区画整理事業>  井荻町は明治22年(1889年)、上下井草村及び上下荻窪村の四村が統合、東多摩郡(のち豊多摩郡)井荻村として成立しました。大正15年(1926年)井荻町となった前後から、関東大震災後の急激な市街地化に対応して、土地区画整理事業に取り組みます。総面積888町歩(888ha)に及ぶ区域を対象に、道路、水路の改修、農地の宅地化はもとより、善福寺池畔の地下水を水源に、独自の水道を開発するなど、近隣の土地区画整理事業のなかでも突出した規模、内容を有していました。ちなみに、やや遅れて開始された江古田川流域の区画整理事業は、中村、中新井、江古田と個別に行われ、各々数十町歩規模となっています。なお、森泰樹「杉並風土記」によると、前回テーマの上井草球場の敷地も、西武線の駅の増設と引き換えに、地域発展の公共事業への使用を条件に、組合から西武鉄道に提供されたものだそうで、結果当初の井荻駅のほか、上井草駅、下井草駅の三駅が開設されました。