神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

藍染川

2019-11-30 06:44:01 | 平川・外堀4

 藍染川というと不忍池に注ぐ谷田川の別名(下流部分)が有名ですが、こちらの藍染川は内神田を流れ、美倉橋(新シ橋)下流で神田川に合流していたものです。「神田鍛冶町の通り(通り町筋、中山道のこと)を横ぎりて、東の方へ流るゝ溝なり。俚諺に一町ばかり上にて、南北の水落合、此所にて合流する故に、逢初と云の儀にとると云。又紺屋町の辺りを流るゝ故に、藍染川と云ともいへり」(「江戸名所図会」) 「水源は新石町ヨリ東流シテ神田鍛冶町紺屋町ヨリ神田富松町ニ至リテ神田川ヘ入ル小溝ナリ 此水紺屋町辺を流ルヽ故ニ藍染川ノ名アリ 延袤凡三十四町二十四間幅二間ヨリ三間深一間ヨリ五尺」(「東京府志料」)

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 藍染川」(1/18000)  オレンジ線は区境で、左上隅の文京区から時計回りに、台東区、墨田区、江東区、中央区、千代田区です。

 江戸末頃の主要な堀川を重ねていますが、神田駅の西南から発し、神田川に注いでいるのが藍染川で、途中左右に分かれて再合流している個所が、引用文でも指摘されています。ところで、この藍染川の流れる内神田の一帯は、一度UPした→ 「東京地盤図」からも推測できるように、元々は不忍池からさらに南下していた谷田川・藍染川水系に属する低湿地でした。伝説のお玉が池もその名残と考えられますが、慶長8年(1603年)の豊島洲崎の造成の過程で、お玉が池をはじめとする低湿地は埋立てられ、その後排水用の大下水として藍染川が開削されたのでしょう。

 

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    ・ 藍染橋跡  正面奥は昭和通りと高架の首都高1号線ですが、そこで左右に分かれた流れは、この付近で再び落合い手前右手を流れていました。そこに架かっていたのが→ 藍染橋です。

 藍染川の回流個所の右上に、→ お玉稲荷が祀られています。「於玉が池 旧名を桜が池と云。今神田松枝町人家の後園に、於玉稲荷と称する小祠あり、俚諺に云於玉が霊を鎮ると。其傍に少しく井の如き形残れり、昔の池の名残なりといへり。(割注)往古は大なる池なりしが、江戸の繁盛にしたがひ漸くに湮滅して、かくのごとしとなり」(「江戸名所図会」) 「図会」はさらに続けて、お玉が池と呼ばれるようになったのは、池畔の茶店の娘、お玉が二人の男に思いをかけられ、どちらも選べず池に身を投げたため、との故事を紹介しています。