高砂橋の次は栄橋、その次は問屋橋と、ほぼワンブロックごとに橋が続きます。これは、→ 「切絵図」にも描かれた下流の武家屋敷の区画から一転、吉原旧地以北の町屋エリアに差し掛かったためで、ここから本町通りにかけて、古くからの町人居住地となっていました。その一つが、本町通りの手前の東側に正方形のブロックを形成していた橘町です。明暦の大火後築地に移転した西本願寺の旧地にあたり、一時、家康の二男結城秀康の家系で、越前堀のところにも登場した松平越前守の屋敷があり、天和年間(1681~4年)頃町屋となって1~4丁目を起立しました。門前でタチバナを売る店が多かったことから、そう名乗ったといわれています。
- ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)
- 1. 久松町区民館裏から路地が始まります。震災復興で高砂橋はここに移り、元のは元高砂橋となりました。
- 2. 栄橋の架かっていたところです。右手に若干ズレますが路地は続きます。
- 3. 震災復興で創架された問屋橋(長さ14m、幅員16m)のあったところです。前後の橋の長さはみな14mほどで、堀幅もそのくらいだったのでしょう。
- 4. 千鳥橋が架かっていました。「御府内備考」にも収録されていますが、「その名の起りは詳にせず」です。
- 5. 汐見橋の架かっていたところです。問屋橋からこの橋までの右手が、昭和40年代まで橘町を名乗っていました。