神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

神田山開削

2019-11-16 06:13:29 | 平川・外堀4

 最後のクール、「平川・外堀4」です。神田山の開削を伴う最後の付替えは、元和年間(1615~24年)に行われました。ただ、元和2年なのか同6年なのか、二つの説が拮抗しています。まずは元和2年の「台徳院殿御実記」(徳川幕府の正史)からの引用、ただし、「東京市史稿 市街篇」からの孫引きです。「駿府より参り仕る輩に給う宅地、始には江戸川の水路を北東に直流せしめ、其中に宅地を築き給ふへしとて吉祥寺の後より、本郷の台を掘通すへきかと有しが、また改て吉祥寺の前を掘りうかち、田安門の北東を平均し、神田明神の祠、萬随意院以下の神祠寺院を遠く退け、・・・・堀の土をもて宅地を平均せらる」

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 平川・外堀3」(1/18000)  オレンジ線は区境で、主に神田川を挟んで文京区と千代田区です。

 次いで元和6年の記述の引用です。「此秋はじめより神田台の下に堀をうがち、堤を築かしめる。堀の方は松平右衛門大夫正綱奉行し、堤は阿部四郎五朗正之奉行す。(11月25日、二代将軍秀忠が)神田台へならせられ、溝渠疏鑿の地を親巡し給ふ」 「東京市史稿」は元和2年に神田山を開削、同6年に拡張、築堤工事を行う、との立場から史料を編纂しています。ただ、元和2年の計画変更後の「吉祥寺の前を掘りうかち」が、神田山開削という当初の計画の大枠はそのままで、開削場所を吉祥寺の後から 現行のように前に変えたのか、それともこの時点では開削はあきらめ、「吉祥寺の前」の流路の整備改修、「田安門の北東」、すなわち小川町一帯の宅地造成にとどめたのか、解釈の分かれるところです。

 

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    ・ 神田川  水道橋から見た神田山の開削個所です。左手の都立工芸高校のあたりにあった吉祥寺は、明暦3年(1657年)の大火後、江戸復興計画の一環として駒込に移転し、現在に至っています。

 <「東京市史稿」>  明治44年(1911年)以来、現在も刊行が続いている、江戸、東京の歴史資料集です。分野ごとの史料を編年体(年代順)で編纂しており、目下のところ皇城篇、御墓地篇、変災篇、上水篇、救済篇、港湾篇、遊園篇、宗教篇、橋梁篇、市街篇、産業篇の全11分野177巻まで刊行されました。特に上水編全4巻、橋梁編全2巻、それに江戸初期の皇城編、市街篇、変災編などには、大変お世話になっていて、これまでも度々引用しています。なお、タイトルは東京市の事業として出発したためで、昭和18年(1943年)以降は東京都が引き継いでいます。