最後のクール、「平川・外堀4」です。神田山の開削を伴う最後の付替えは、元和年間(1615~24年)に行われました。ただ、元和2年なのか同6年なのか、二つの説が拮抗しています。まずは元和2年の「台徳院殿御実記」(徳川幕府の正史)からの引用、ただし、「東京市史稿 市街篇」からの孫引きです。「駿府より参り仕る輩に給う宅地、始には江戸川の水路を北東に直流せしめ、其中に宅地を築き給ふへしとて吉祥寺の後より、本郷の台を掘通すへきかと有しが、また改て吉祥寺の前を掘りうかち、田安門の北東を平均し、神田明神の祠、萬随意院以下の神祠寺院を遠く退け、・・・・堀の土をもて宅地を平均せらる」
- ・ 「段彩陰影図 / 平川・外堀3」(1/18000) オレンジ線は区境で、主に神田川を挟んで文京区と千代田区です。
次いで元和6年の記述の引用です。「此秋はじめより神田台の下に堀をうがち、堤を築かしめる。堀の方は松平右衛門大夫正綱奉行し、堤は阿部四郎五朗正之奉行す。(11月25日、二代将軍秀忠が)神田台へならせられ、溝渠疏鑿の地を親巡し給ふ」 「東京市史稿」は元和2年に神田山を開削、同6年に拡張、築堤工事を行う、との立場から史料を編纂しています。ただ、元和2年の計画変更後の「吉祥寺の前を掘りうかち」が、神田山開削という当初の計画の大枠はそのままで、開削場所を吉祥寺の後から 現行のように前に変えたのか、それともこの時点では開削はあきらめ、「吉祥寺の前」の流路の整備改修、「田安門の北東」、すなわち小川町一帯の宅地造成にとどめたのか、解釈の分かれるところです。
- ・ 神田川 水道橋から見た神田山の開削個所です。左手の都立工芸高校のあたりにあった吉祥寺は、明暦3年(1657年)の大火後、江戸復興計画の一環として駒込に移転し、現在に至っています。
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