神田堀は小伝馬町の町屋、亀井町のあたりで浜町堀と連絡していました。元禄4年(1691年)に、神田堀を開削するにあたって、手前で堀留になっていた浜町堀を延長、両者をL字で連結し通船可能としたものです。その後明和2年(1765年)には、L字の個所を両側から2間半づつ狭め、通船はできなくなり、安政4年(1856年)には、龍閑橋付近を除き「小溝」となりなりました。「神田堀 外濠ノ水龍閑橋ヨリ東シテ・・・・亀井町ニテ南折シ・・・・浜町堀ニ合ス 延袤七町幅四間 ・・・・安政四年填埋シテ今ハ小溝トナレリ」(「東京府志料」)
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。同一場所、同一縮尺の「明治42年測図」は→ こちらです。
明治16年(1883年)に再び拡幅し、今度は浜町堀を神田川まで延長したため、T字で連絡することとなりました。これ以降、神田堀は龍閑川と呼ばれ、浜町堀は延長部分も含め、浜町川となりました。上掲「1/5000実測図」は拡幅の途中経過を反映しています。埋立てられたのは戦後になってからで、途中の地蔵橋公園にある「龍閑川埋立紀念」碑によると、昭和25年(1950年)、流路に大下水管(別の資料によると内径180cm)を埋設し、戦災残土をもって埋立てられました。
- ・ 龍閑児童公園 浜町川とT字あるいはL字で連絡する区間は、長方形の児童公園になっていて、奥が浜町川跡の路地です。公園の一角には、竹森橋の名前の元となった竹森神社が祀られています。
- ・ 地蔵橋公園 昭和通りの先の左手に地蔵橋公園があり、龍閑川跡の道路に面して「龍閑川埋立紀念」碑が立っています。なお、地蔵橋は拡張以前の昭和通りに架かっていました。