明治5年(1872年)、筋違門の桝形石垣が解体された際、その石材を転用して石橋に架けかえ万世(万代)橋と名付けました。命名者は「よろずよ」と訓読みを考えていましたが、普及したのは音読みの「まんせい」のほうでした。また、アーチ二連の形状から、眼鏡橋とも呼ばれました。明治36年には、現在の場所に新たに万世橋が誕生、古い方は元万世橋と名を変え併存していましたが、同39年に撤去されました。
- ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」 「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部及び北東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。
この撤去された元万世橋の→ 遺構が、神田明神の社殿裏に保存されていて、橋は肥後出身の石工、橋本勘五郎作と伝えられています。ところで、上掲「実測図」を見ると、筋違橋のところが万世橋となっているのは上述のとおりですが、現在の万世橋の場所にも橋が架かり、橋名は昌平橋となっています。これは明治6年の洪水で昌平橋が流失したあと、同32年に再建されるまでの一時期、現万世橋の場所に私設、有料の橋が架かり、昌平橋と呼ばれていたことによります。
- ・ 万世橋 現在の万世橋は震災復興時の架け替えで、長さ26m幅36mの石とコンクリート混成のアーチ橋です。
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