神田山の開削部分は伊達藩が工事を担当、仙台堀とも呼ばれたといわれています。家康と政宗が碁を打っていて、家康が「政宗にしよう」(一眼にして石をとるの意)といい、政宗が「本郷から攻めよう」と応じて、江戸城の防衛上の弱点を指摘、自ら神田山開削をかって出たとか、相手は家康でなく秀忠だとか、囲碁でなく将棋だとか、この手のエピソードにありがちな多様なバージョンが流布しています。ただ「東京市史稿」の引用する文献の範囲では、元和2年は阿部正之が奉行、関東八州の人足を動員した幕府直轄事業、同6年も阿部正之が堤担当、松平正綱が堀担当奉行とあって、伊達政宗の名前は出てきません。
- ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 麹町区」を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、左上から時計回りに文京、台東、そして千代田区です。
これに対し、伊達藩が担当したのが確実なのは、万治3年(1660年)、牛込までの舟運を開くための拡張工事です。「一、牛込土橋迄船入候様ニ御堀ホラセ可申事。一、水道橋ヨリ仮橋迄、堀ハバ水ノ上ニ八間タルヘキ事。一、水道橋ヨリ牛込御門迄、土居ノ上置き、ヒキゝ所ニテ弐間、其外ハ土居之高下ニヨリ、築足可申事」といった詳細な記録が残っており、工期は翌寛文元年までの約1年間、総費用は小判で49504両となっています。この工事を以て、神田山開削との誤解が普及していたようで、「江戸砂子」は「万治年中に松平陸奥守殿、鈞命をうけてお茶の水をほりわり浅草川へおつる。これを神田川と云」と書いています。
- ・ 神田山 駿河台に上る皀角( さいかち)坂から、JR線、神田川越に吉祥寺のあった都立工芸高校、東京ドーム方向のショットです。
「御府内備考」はこうした誤解に対し、「世の人、駿河台と本郷とは元山丘一連の地なりしを、綱宗(万治期の伊達家当主)新に掘割で今の地形に変ぜしといひ伝ふるは誤なり・・・・もとより細流在しを、堀広げしめ給へるに過べからず」とし、元和の開削工事については触れていません。一方、「江戸名所図会」は「慶長年間駿河台の地開けし時に至り、水府公の藩邸の前の堀を浅草川へ堀つゞけられ、其土を以て土手を築き、内外の隔となし給ふと云。此説しかるべきに似たり。按に、昔は舟の通路もなかりしを、仙台候命をうけたまはられし頃、堀広げ、今の如く舟の通路を開かれたりしなるべし」とし、元和を慶長としている以外は現在の一般的な理解と同様です。