神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

浜町堀3

2019-11-01 06:12:30 | 平川・外堀3

 浜町緑道に戻りますが、すぐに消防署(人形町出張所)に突き当たって終了です。突き当たる手前に、明治に入り久松橋が架けられました。久松はこの先の右手にあった町屋で、天和3年(1683年)に起立、明治以降範囲を拡大し、現在は日本橋を冠しています。なお、久松橋の架かっていた道は震災復興で整備され、橋も明治橋と呼ばれるようになります。すぐ右手で明治6年(1873年)から営業していた芝居小屋が、のち明治座と名乗ったことが由来と思われます。(明治座も震災で焼失した後、百数十メートル離れた現在地に移転しています。)

 

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    ・ 久松橋跡  ここで浜町緑道は終了、久松橋の架かっていたところです。なお、奥の消防署も浜町堀跡の細長い敷地を利用しています。

 久松橋の次の橋は小川橋です。こちらは江戸時代からの橋で、「御府内備考」では難波橋となっています。「同じ堀の続き浜町にあり。橋の西難波町あれば呼名とす」(「御府内備考」) 江戸末には小川橋の名が一般化し、前々回UPの→ 「切絵図」でもそうなっています。「小川橋 浪花町ヨリ久松町ヘ架ス長八間幅三間」(「東京府志料」) ただ、小川橋の→ 由来碑によると、日本初のピストル強盗を逮捕した際の負傷がもとで殉職した巡査を讃え、その名前から小川橋と呼んだとあります。この話は明治19年(1886年)のことなので、たまたま同じ名前だった巡査を讃える意味も込められたのでしょう。

 

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    ・ 小川橋跡  右手は小川巡査の所属していた久松警察署、正面は浜町堀跡を利用した細長い久松児童公園の入り口です。

 <山伏の井戸>  「切絵図」の右上隅、現在の久松警察署前の通りに、「山伏井戸」と称する名水がありました。「浜町往来の道の中にあり。中頃水あしかりけるを、山伏の祈りけるより、もとのごとく名水となれるよし」 「御府内備考」は「江戸志」を引用してそう書いていますが、歯痛に効能ありとの言い伝えもあったようです。ところで、同「備考」は他にも10を超える「〇〇の井」を紹介していますが、なにせ、「今の江戸町は十二年以前(慶長8年)まて大海原なりしを、当君の御威勢にて南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。然るに町ゆたかにさかふると云へ共、井の水へ塩さし入、万民是をなけく」(「慶長見聞集」)という水事情で、塩気のない井戸水はそれだけで名水だったのでしょう。