ここに岩島村誌という1400頁の本がある。
明治20年から昭和30年の70年間存在した村だ。
群馬県の山奥の村の70年の記録である。
編纂したのはすべて村人。
その中に片貝新十郎という名前が出てくる。
岩島村の村長を5期務めた人物だ。
村誌には出てこないが、その弟の治四郎と三四郎の話をここでしたい。
治四郎は福沢諭吉の慶應義塾で学んだ。
その後外交官となり中国や台湾総督府に駐在した。
日露戦争時代に外交官としてそれなりの役割を果たした。
乃木大将ステッセル将軍と共に水師営にて。
しかしその後病を得て病死。
三四郎は木檜家へ養子に入り
木檜三四郎として大隈重信の東京専門学校に学ぶ。
大熊重信夫妻(写真中央)は、学生たちを、列車の二等車を借り切って旅行に連れて行ってくれたそうだ。(孫の秀子さん談)
その後政治家となり軍縮交渉の全権大使などを務めたという。
昭和10年代の太平洋戦争末期に、軍部を批判したため殺されそうになったが、それにもめげずに発言を続けたという。選挙のビラは軍部の圧力で印刷できず、東京で印刷して持ち込もうとしたが、上野駅でつかまってしまうなど酷い妨害を受けながら意志を貫いた。(秀子氏談)
このように、昔の岩島村には人物がいて、力もあった。しかし明治以来の中央集権国家の影響で優秀な人物は中央(東京)に出て行って戻らず村は力をなくし過疎となって行った。そして自力では何もできなくなった。
岩島村は昭和30年の町村合併で吾妻町となった。
今では東村と合併して
東吾妻町となっている。
いくら合併しても、このままでは町に未来があるとは思えない。
自治体としては
海士町のような試みも必要だし、国としても道州制を含む地方分権を真剣に考えないと日本は沈没してしまう。