片貝孝夫の IT最前線 (Biz/Browserの普及をめざして)

Biz/Browserの黎明期からかかわって来ました。Bizを通じて日常を語ります。

旭硝子「管球システム」プロジェクトの同窓会

2008年04月26日 | 感動したこと
旭硝子の藤田さんが、シンガポールの、ブラウン管用ガラスパネル工場を閉じて戻ってきた。ブラウン管の時代は終わったということだ。その慰労会ということで、当時のプロジェクトマネージャだった神田さんが音頭を取って、懐かしい茅場町ダイヤビル近くの寿司屋に集まった。
今から35年前、CRT(ブラウン管)が急速に普及し始め、ブラウン管用のガラスの需要が急激に伸びた。それに合わせて旭硝子では、販売・製造・物流の総合オンラインシステムを構築することとなった。そのときの旭硝子のメンバーが今日集まったのだ。開発を受託したのがシーエーシーで、私もそのプロジェクトの一員だった。当時最新鋭のIBMシステム370を使い、データベースはネットワーク型データベースのTOTAL。開発言語はPL/Ⅰ。設計開発手法はHIPOとデシジョンテーブル、そしてウオークスルーを取り入れた。旭硝子側とシーエーシー側合わせて、ピーク時は100人を越えるプロジェクトだった。開発には3年を要した。だれもが失敗すると予想していたプロジェクトは、なんとかカットオーバーした。みな家庭を犠牲にして働いた。
写真は、神田さん、岡田さん、舟木さん、高木さん、藤根さん、梅渓さん、松村さん、石井さん、吉沢さん、藤田さん、秋山さん、あとお名前が出てきませんが、、、。神田さんが片貝も呼べということで、石井さんから連絡があり、私も出席。
システムは順調に稼働を続け、25年間利用された。まだ使えたが、メンテナンスできる人がいなくなり、つい数年前システムが更新された。プロジェクトが始まったとき私は29歳だった。今日集まったメンバーは59歳から72歳まで。ほとんどの方は退職され悠々自適の生活をされている。しかしこうやって集まると、昨日のことのようにいろんなことが蘇る。昼夜逆転の生活を送ったことや、昼間雀荘で遊んでいるところに踏み込んでタンカを切ったことなど、苦しかったことほど楽しく思い出される。
みなさん、本日はありがとうございました。今度は、当時のシーエーシーのメンバーも入れて旧交を温めたいと思います。