旭硝子の藤田さんが、シンガポールの、ブラウン管用ガラスパネル工場を閉じて戻ってきた。ブラウン管の時代は終わったということだ。その慰労会ということで、当時のプロジェクトマネージャだった神田さんが音頭を取って、懐かしい茅場町ダイヤビル近くの寿司屋に集まった。
今から35年前、CRT(ブラウン管)が急速に普及し始め、ブラウン管用のガラスの需要が急激に伸びた。それに合わせて旭硝子では、販売・製造・物流の総合オンラインシステムを構築することとなった。そのときの旭硝子のメンバーが今日集まったのだ。開発を受託したのがシーエーシーで、私もそのプロジェクトの一員だった。当時最新鋭のIBMシステム370を使い、データベースはネットワーク型データベースのTOTAL。開発言語はPL/Ⅰ。設計開発手法はHIPOとデシジョンテーブル、そしてウオークスルーを取り入れた。旭硝子側とシーエーシー側合わせて、ピーク時は100人を越えるプロジェクトだった。開発には3年を要した。だれもが失敗すると予想していたプロジェクトは、なんとかカットオーバーした。みな家庭を犠牲にして働いた。
写真は、神田さん、岡田さん、舟木さん、高木さん、藤根さん、梅渓さん、松村さん、石井さん、吉沢さん、藤田さん、秋山さん、あとお名前が出てきませんが、、、。神田さんが片貝も呼べということで、石井さんから連絡があり、私も出席。
システムは順調に稼働を続け、25年間利用された。まだ使えたが、メンテナンスできる人がいなくなり、つい数年前システムが更新された。プロジェクトが始まったとき私は29歳だった。今日集まったメンバーは59歳から72歳まで。ほとんどの方は退職され悠々自適の生活をされている。しかしこうやって集まると、昨日のことのようにいろんなことが蘇る。昼夜逆転の生活を送ったことや、昼間雀荘で遊んでいるところに踏み込んでタンカを切ったことなど、苦しかったことほど楽しく思い出される。
みなさん、本日はありがとうございました。今度は、当時のシーエーシーのメンバーも入れて旧交を温めたいと思います。
今から35年前、CRT(ブラウン管)が急速に普及し始め、ブラウン管用のガラスの需要が急激に伸びた。それに合わせて旭硝子では、販売・製造・物流の総合オンラインシステムを構築することとなった。そのときの旭硝子のメンバーが今日集まったのだ。開発を受託したのがシーエーシーで、私もそのプロジェクトの一員だった。当時最新鋭のIBMシステム370を使い、データベースはネットワーク型データベースのTOTAL。開発言語はPL/Ⅰ。設計開発手法はHIPOとデシジョンテーブル、そしてウオークスルーを取り入れた。旭硝子側とシーエーシー側合わせて、ピーク時は100人を越えるプロジェクトだった。開発には3年を要した。だれもが失敗すると予想していたプロジェクトは、なんとかカットオーバーした。みな家庭を犠牲にして働いた。
写真は、神田さん、岡田さん、舟木さん、高木さん、藤根さん、梅渓さん、松村さん、石井さん、吉沢さん、藤田さん、秋山さん、あとお名前が出てきませんが、、、。神田さんが片貝も呼べということで、石井さんから連絡があり、私も出席。
システムは順調に稼働を続け、25年間利用された。まだ使えたが、メンテナンスできる人がいなくなり、つい数年前システムが更新された。プロジェクトが始まったとき私は29歳だった。今日集まったメンバーは59歳から72歳まで。ほとんどの方は退職され悠々自適の生活をされている。しかしこうやって集まると、昨日のことのようにいろんなことが蘇る。昼夜逆転の生活を送ったことや、昼間雀荘で遊んでいるところに踏み込んでタンカを切ったことなど、苦しかったことほど楽しく思い出される。
みなさん、本日はありがとうございました。今度は、当時のシーエーシーのメンバーも入れて旧交を温めたいと思います。
ついでに・・・最近チョクチョクBIZの広告が大々的に新聞に掲載されていますね。益々の発展何よりです。
BIS開発のときは、まだ若々しくて、上司も恐れぬふてぶてしさ、深夜の仕事帰りは、必ず居酒屋荒らし。
午前様のご帰還に、母親から早く帰って来いと説教されて、頭の中は、BISの物流システムと酒のことだけ。それが当時の私でした。
これ状態が3年あまり続けられたこと、今では、信じられない程の気力でした。皆様、ご苦労様でした。
房総での大宴会での、大騒ぎ。一生忘れませんぞ!
今やもうそんなエネルギーは、消滅し、妻に内緒で、こっそりと居酒屋通いのていたらく。
これもまたいいものです。
CACの当時の皆さんと昔に戻って居酒屋荒らし?でも。
皆さん、若々しく、元気ですね。
特に片貝さん若さが光ります。
会の翌日(27日)は、朝1時30分出発で
外房の大原にヤリイカ釣りに行ってましたの
で、写真のお礼が遅れ、申し訳ありませんで
した。
4月30日~5月2日は、山形の渓流に入り
ヤマメ釣りと山菜採りをして来ます。
片貝さんの益々のご活躍を期待しています。
小生にとって初めての汎用系大型コンピュターでのシステム開発。それまではミニコンピュータでメモリーが16KB程度でのシステム開発でした。そのメモリーがメガと聞いて「これは無限大・・」そんな感想を抱いて取組んだシステム開発でした。
でもいろんな事がありました。しかし、委託側も受託側も「このシステム開発を成功させたい!」そんな熱い思いを共有して取組んだシステム開発でした。
神田さんには船橋の寮にご一緒させていただき、生意気にも意見具申させていただいた事、そして岡田さんには公私共にお世話になりました。そんな事が走馬灯のように思いだされます。
しかし写真を拝見させていただいている限り、誰が何方か良く分りません(笑)。
是非、機会あればご一緒できれば嬉しいですね。
今、毎日、新船橋を経由して通勤しています。しかし、目の前の船橋工場は更地になっていて、その更地を見るたびに、管球システムでお世話になった方々はどうされているのか・・。そしてシステム開発の頃を懐かし思い出しながら通勤していました。
懐かしい方々の写真を拝見させていただきました。
私は、BISの「計画管理システム」を担当させていただきました。そのとき高木さんの書かれた設計書にアラームシステムという考え方があり、大変先を考えられたシステムで、今でも通用する考え方と思います。後々、様々なシステムの設計を行う上で大変参考になり、販売システムや保険のシステムにその考え方を生かさせていただき大変好評を得ました。
そのとき高木さんが書かれた青焼きコピーの設計書を未だに本棚に飾ってあります。
技術者としては、卒業させていただきましたが小さいながらシステム開発会社を経営させて頂いております。
もし、よろしければHPの方を見ていただければと思います。
http://www.huvi.co.jp
皆さんのご健勝をお祈りいたしますと同時にお会いできる日があればと思います。
藤田君から、この会の開催を聞きましたが、参加できず、本当に残念でした。片貝さんが記述されているような昼夜逆転の生活、飲み会、マージャン、スキーなども懐かしく思い出します。
私の本帰国時に同様な会が開かれると良いのですが。。。
みな風貌は多少かわっただけで、昔のと変わらない気分で過ごすことができました。
久しぶりの酒豪との宴会のせいか、旅の疲れか翌日は
多少2日酔い気分で過ごしました。
またの機会を楽しみにしております。