朗読会のお誘いをいただいた。
フラワーアレンジメントスクールで長い間ご一緒させていただいいてるお仲間の一人が、「秋桜の会」という朗読グループに所属している。
節分のころに「春呼ぶ朗読会」というイベントにお誘いいただいて、初めて「朗読」というものに触れることができた。
私は演劇が好きでたびたび観に行っているけれど、セリフですべてを表現する演劇とは違い、文章をそのまま忠実に読む朗読は演劇とは違った味わいがあり新鮮だった。
前回は、季節柄 鬼の話がメインだったけれど、今回は全く違っている。
何を基準に朗読をする皆さんがこの文章を選んだのかも興味深いところだ。
その時は私の住む駅のお隣の駅前にある公民館のような施設の一室が会場だった。
今回はなんと銀座。
歌舞伎座のすぐそば「銀座煉瓦画廊」。
主催の豊田紀雄さんという方の作品やコレクションが展示されている中での朗読だ。
このスクリーンに前回と同じく 宇田川民生さんとおっしゃる方の版画が映し出される。
小さな椅子が並べられた会場は満席。
スクリーンの準備をしていた宇田川氏が、ずいぶん前に電車の吊り広告でみた樹木希林さんが池の中に浮かんでいるポスターを映し出し、
すっと立ち上がり、そのポスターに書かれている「死ぬときくらい好きにさせてよ・・・」の文章を朗読する。
とつとつとした語り口がなんとも誠実な感じがして、温かい気持ちになる。
始まりの2作は夏目漱石。
最初は夢十夜の中から「第一夜」
スクリーンには大きく目を見開いた女の人が映る。
日が落ちて、また昇る様子を「のっと落ちる」とか「のそっとあがる」などと表現するのが楽しい。
こういう風な状況の説明は演劇には出てこないので、セリフからそのイメージを想像するしかないのだけれど、
そういう意味では朗読は景色を想像しやすいかもしれない。
続いて「モナリサ」(「永日小品」)
「黄ばんだ顔」の怪しい笑みをたたえるモナリサの絵を何となく気味が悪く感じるさまがリアル。
どこから見てもこっちを見ているようで、確かに不気味。
遠い昔、森永ビスケットの懸賞で「モナリザパズル」というジグソーパズルが当たって、妹たちと必死で作り上げたことを思い出す。
当時、ジグソーパズルみたいな気が遠くなるような細かいピースのパズルに触れたのが初めてだった上に、同じような色の場所が多くて途方に暮れた。
楽しいよりも苦しくなってきて、妹と一緒に宿題のように口も利かずに黙々とピースを合わせていったものだ。
確かに黄ばんだ顔だったなあ。
実は私の脳ミソと夏目漱石の文体は相性がすこぶる悪い。
何度かチャレンジしたけれど、どうもすっと頭に入ってこなくて読むのが苦痛になりリタイアしてしまう。
けれど、人に読んでもらうと、こんなにもすっと頭に入ってくるのが不思議だ。
おかげで文豪の世界を垣間見ることができた。
3番目は「私の風呂戦争」(佐野洋子「ふつうがえらい」)
この作品を朗読したのがこの朗読会に誘ってくださった方。
お風呂ギライの息子の成長がユーモラスに描かれている。
彼女の声や、はきはきとした活舌のよさは、アナウンサーのようでとても心地よい。
人柄の良さもにじみ出て、お母さんのさまざまな思いをすり抜ける息子の様子が目に浮かぶ。
私の二人の息子はもう成人しているが、そのころの大変さを懐かしさとともに思い出す。
仕事をしながらの子育ては、とにかく慌しくて、日々の雑多なことをあれこれをこなしているうちにいつのまにか育ってしまった感があるが、朗読を聞きながら様々なシーンが浮かんできた。
4番目は「まつむし草」(辻邦生「花のレクイエム」)
辻邦生さんの小説は恥ずかしながら読んだことがない。
けれど、なんだか映画のワンシーンが浮かび上がるようだ。
淡い想いみたいなものが、ちょっとせつなく甘酸っぱい。
少し紗のかかった情景が目の前に広がる気がした。
帰宅してから「まつむし草」ってどんな花なんだろう、と思い検索してみる。
するといつもアレンジでよく使うスカビオサだった。
これからレッスンの時にスカビオサが花材として入っていたら、花冠を思い出してしまうかもしれない。
前半の最後は「雪女」(小泉八雲「怪談」)
あまりにも有名なこのお話だけれど、聞いているうちに思いのほかざっくりとしか知らなかったことに気づく。
子供が10人もいたんだ
とか、新鮮な驚きだ。
夫の話を優しく促しながら聞いている妻が、恐ろしい雪女に豹変するときの声色の変化には思わず鳥肌が立つ。
それにしても愛する夫にこの誘導尋問はないだろう、などと思ったりもする。
約束を守るかどうか監視するためだけに一緒にいたのだろうか、でも優しい夫との平穏な日々を愛おしく思っていたはずだ、とか雪女とのハーフの子供って将来どうなるのだろうか、などとくだらないことも考えてしまう。
休憩時間に展示されている絵や陶器を見たかったけれど、とにかく人がいっぱいでなかなか作品に近づけない。
もっと早く会場に入ればよかった。
休憩の後は「無名俳人 鶴巻あやの人生」と付題した口上が宇田川氏から語られる。
なんでも彼の奥様のお母さまだとか。
そのあとは、この朗読の会の主宰である小松久仁枝さんが「鶴巻あやの世界」と題して彼女の人生を語り、彼女の作品を朗読する。
宇田川氏が義母の激動の人生から生まれた詩や俳句に版画を合わせた作品たちが、次々とスクリーンに映し出される。
過酷な生活の中で詩を作ることが生きる力だった、ということがひしひしと伝わってくる。
どこかで同じようなことが・・・と記憶を手繰る。
数年前にみた、金子みすゞが自ら死を選ぶまでの3年間にスポットをあてた「空のハモニカ」という舞台だ。
金子みすゞが、女の子を授かってから、自ら命を絶つまでの日々を描いたお芝居。
女性が社会に進出していくのが、果てしなく難しかった時代、
強く、静かな思いを胸に、詩を書き続けたみすゞが、ついに力尽きるまでが、淡々と、穏やかに描かれていた。
彼女は詩を書くことを取り上げられ、絶望し自ら命を絶ってしまう。
彼女もまた、詩という形で自分を表現することが生きる力だった。
この時のみすゞのセリフに
「心が道を照らす」
というようなものがあり、心に響いた。
あやさんの心も道を照らしていただろうか。
あやさんは詩を書き続けることができて、ホントによかった。
そうでなければ、もしかしたら宇田川氏は奥様と出会うことができなかったかもしれない。
過酷な日々が一段落してからの俳句はなんとも穏やかだ。
その中の一句に心ひかれた。
「一人でも笑うことあり青瓢箪」
描かれている2つの瓢箪がほほえましい。
想像を絶する過酷な日々を経て、たくさんのつらいことを乗り越えて、一人笑える心の余裕というか大きさに、なにか圧倒的なものを感じた。
前回の朗読会は所用で中座したため、小松さんの朗読を聞くことができず残念だったが、今回は最後まで聞くことができた。
なんとも温かい広がりのある声で、深い想いの込められたあやさんの詩や俳句が空中を自由に舞っているようだった。
青瓢箪と糸とんぼの句のときに映し出された版画が心に残り、終演後、宇田川氏に思わず声をかけてしまう。
「作品は絵葉書などにはなってないのでしょうか。」
図々しい・・・。
特に作ってはいないけれど、どの作品かを言ってくれたら作りますよ、などと後片付けの手を止めて、にこやかにおっしゃる。
なんてもったいない
そんなわざわざ作っていただくわけには、と恐縮する私に、宇田川氏は後程送ってくださる、ともったいないお言葉。
お言葉に甘えて名刺を交換させていただく。
本当に図々しくて申し訳ありません。
でも、楽しみにお待ちしています。
前回、今回とも、もう一人フラワーアレンジ仲間が会場に。
彼女は私と同じ観客として、来場していた。
前回は帰るまで彼女が会場に来ていることに気がつかなかったが、今回はお隣に座って、最後まで。
一人で聴くのも楽しいけれど、感動を共有できる仲間がいると、楽しさが倍増する。
というわけで、朗読会を思い切り堪能させていただいた。
秋桜の会のみなさん、宇田川民生さん、楽しい時間をありがとうございました。
益々のご活躍をお祈りしています