御寺 泉涌寺は天長年間(824~)、弘法大師がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名されました。建保6年
(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の
造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみました。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改められ、この泉は今も枯れ
ることなく涌き続けております。
昨年から始まりました、夜間拝観は11月23日まで開催されておりました。
雨模様でしたが、各伽藍が幻想的に浮かび上がっておりました。
山門を入り正面に位置する仏殿 当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ以降建立のものです。大門から参道を下って正
面の仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建され、現在伽藍の多くはこの時整備されております。仏殿は一重もこし付入母屋造り本
瓦葺き、唐様建築の代表作で、国の重要文化財に指定されております。
仏殿の横では、菊花展が行われておりました。
仏殿には、御本尊の三尊仏が祀られており、内陣に向かって左から伝運慶作お阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されております。
仏殿の後方、舎利殿は、釈迦の仏牙舎利を奉安する貴重な霊殿であり、慶長年間(1596~1615)、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同
時代に現位置へ移されました。開山俊律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来し遷座いたしました。
舎利殿では、夜間拝観期間中公開されることがなかった天井板に描かれた龍の下で手を叩きますと天井板が響く「鳴き龍」を経験することが出来ました。
舎利殿の後方(東側)勅使門と御座所
本坊玄関門
期間中、本坊前庭では、月輪未生流の献華展が行われておりました。
霊明殿 現在の霊明殿は、明治15年(1882)10月炎上の後、同17年明治天皇によって再建された尊牌殿で、外観は宸殿風の建物であり、すべて尾
州桧材で造られ、殿内西廂は板間。殿内は内陣・中陣・外陣に分かれ、内陣は五室の宮殿造りとなっております。
本坊北側庭園
本坊玄関前
御座所と勅使門 明治15年(1882)霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失いたしましたが、明治天皇は、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある
皇后宮の御里御殿をお移しになりました。この建物は文化15年(1818)に造営されたものであり御殿は西に御車寄があり、これに続く一棟は六室に別
れ、南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼んでおります。
御座所庭園 御座所の東南から御殿の南側にかけて、小さな御庭が築かれており、霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれた御庭です。
仏殿
舎利殿
楊貴妃観音堂 大門を入って左手奥の堂内、六羅漢像の中央に安置される聖観音像(重文)で湛海律師が寛喜2年(1230)月蓋長者像などとともに
将来された像です。像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来ました。
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