正伝永源院は、元は正伝院と永源庵の二ケ寺でしたが、いづれも建仁寺の塔頭のひとつでした。現在のこの地は、永源庵の建っていたところですが、
正伝院は、大覚禅師・蘭渓道隆とともに中国より来日した義翁紹仁・普覚禅師を開山に鎌倉年間に創建されました。
創建後、しばらくは荒廃しておりました正伝院は、大阪冬の陣のあと隠居しておりました織田信長の弟、織田有楽斎長益が1618年に当院を再興し名
席「如庵」を建て悠々自適の茶道三昧の生活を送っておりました。
今回の特別公開は、3月21日までの京の冬の旅の企画で実現いたしております。
正伝院には、林泉と茶亭があったとの記録がありますが、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の政策により、建造物を売却されたといわれており
ます。 明治初年には、永源庵が廃寺となり、この地に正伝院が移転され、後、正伝永源院と号するようになりました。
永源庵は、建仁三十九世・無涯仁浩を開山に南北朝時代に創建されました。師は25年間中国にあって禅を極め帰国後、細川頼有(熊本細川家の始
祖)の帰依を受け、その後代々師檀の関係が厚く同家より永源庵に出家するものや住職になるものも数名を数え細川家の菩提寺として続いております。
ところが、明治初年の廃仏毀釈の政策により建仁寺は五十余ケ寺の塔頭が現在の十四ケ寺にと大幅に削減されました。当時永源庵は無住であった
ため、たちどころに廃寺処分となりましたが、当庵が本山の真北に位置していたため堂宇を残し、少し離れたところにあった正伝院が、ここに移ってまい
りました。その結果正伝院の土地は上地、建造物は売却の上、その金の寄付を強要されました。その一つが現在犬山に有る国宝の茶室「如庵」です。
そうしてしばらくの間は、正伝院と呼んでおりましたが、時の侯爵である細川家の菩提寺であるため後に永源の名を興し正伝永源院と名乗るようになり
ました。
山門を入り左手に進みますと小さな門があり、入った所に有楽斎の墓石が建っております。 門の手前右側には、鐘楼が見えます。
鐘楼
信長の死後剃髪した有楽斎は、千利休に従事して茶道の宗匠となり、茶道三昧の生活を送り晩年正伝院を再興したのち、1621年75歳で没しました。
有楽斎の墓は旧地に残されておりましたが、昭和37年、有楽斎夫人、息女、孫長好の三基とともに当地に移されました。
方丈入口の唐門
方丈庭園
右手がモミジで左手が枝垂れ桜です。
方丈には、正伝院、永源庵両方の額が掛っております。 御本尊には、釈迦如来像が祀られております。
狩野山楽筆の「蓮鷺図(れんろず)」
有楽斎木像 有楽斎肖像
狩野山楽筆「架鷹図(かしょうず)」 狩野山楽筆「蓮鷺図」
方丈庭園西側に複製された茶室「正伝如庵」
方丈西側の庭園
方丈から右手の階段で庭伝いに茶室の内部を見ることが出来ます。
庭園は、中央の池を琵琶湖に見立てて石橋は、瀬田の唐橋を表していると係りの方が説明してくださいました。
石橋は、天然石で加工されていないものが使用されているとも仰っておられました。
正伝如庵は、数寄屋建築の第一人者、中村昌生氏の監修で千家十職で永源院の責任役員である永楽善五郎氏他多くの方の援助により平成8年10
月に本歌と瓜二つの名席が完成し、如庵の額は細川護貞氏の揮毫によるものが掲げられております。
方丈西側、如庵北側庭園
方丈東側の部屋では、数々の寺宝が展示されております。
方丈東側の庭園
また、永源院は、賤ケ岳七本槍で名を馳せた安芸五十万石の大名福島正則寓居の地でもあり多数の慰霊碑が建っております。
その隣には、細川家歴代の慰霊塔もあります。
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