天気は、今一でしたが久しぶりに円山公園の桜を見に行ってきました。小雨交じりでしたので、花見客も思ったほどではありませんでした。
八坂神社、左側本殿、右側舞殿
八坂神社の正面門の南門
南門の前を通り東側の円山公園へと向かう鳥居です。
相変わらず、ブルーシートが景観を損なっております。 上に茣蓙でも敷けばましなのでしょうが。
円山公園は、京都で最も有名な公園で元々は、八坂神社の一部で明治維新以降に国へ納めるという形で分離されました。円山公園の敷地面積は、
約8600㎡もあり公園内には、坂本龍馬・中岡慎太郎像や有名な枝垂桜があり、 桜の季節には昼夜を問わず多くの人が花見に訪れます。円山公園
のシンボルになっているこの桜は、「一重白彼岸枝垂桜」といい、現在の桜は二代目で初代は樹齢220年で昭和22年に枯死いたしました。昭和3年
に初代より種子を採って育成された桜を、15代佐野藤右衛門氏により昭和24年に寄贈・植栽され、平成21年現在81歳を向えております。
例年ボリュームが少なくなってゆきますが、老木なので仕方ないですね。 それでも今年は、中央に鉄塔が建ちワイヤーで枝を支えているようです。
公園の奥の南側、料理屋のいそべの手前に、坂本龍馬・中岡慎太郎像があります。
円山公園の東側に建つ法然上人ゆかりの吉水の井のある吉水弁財天があります。
お堂に向かって右側(南側)の法然上人閼伽の水「吉水の井」 閼伽(あか)とは、仏教において仏前などに供養される
水のことだそうで、サンスクリット語のargha(アルガ)の音写で、功徳水(くどくすい)と訳されます。インドでは古く、来客に
対し足をそそぐための水と食事の後口をすすぐための水が用意されたといい、それが仏教に取り入れられ、仏前や僧侶
に供養されるようになったもだそうです。
吉水 安養寺前
安養寺 は、桓武天皇が平安京に遷都された延暦年間(782~806)、都を鎮守する寺として、伝教大師 最澄が創建され
ました。また、法然上人が比叡山を下り、吉水で開かれた草庵の一つでもあり天台宗が始まりで、現在は時宗となって
おります。 比叡山を下りた法然房は、最初、京都西郊・粟生の光明寺に住まわれましたが、ほどなく東山大谷へ移られ
たのが、この地吉水です。この東山一帯の土地は、天台宗の堂舎が建立したところで、この頃は青蓮院門跡が所轄して
おりました。
安養寺の北側に建つ知恩院の大鐘 この吉水において草庵をもった法然房は、一心に南無阿弥陀仏と声を出して称えれば、貴族や庶民という身分
に関わらず、阿弥陀仏の救済を受け、浄土に生まれることができる、とした教えを説かれ広められました。いわゆる専修念仏であり当時は、貴族中心の
仏教が全盛時代で、この教えは人々に深く帰依されたことは言うまでもなく、瞬く間に受け入れられることとなりました。
その後、1206年12月、鹿ケ谷(安楽寺)の草庵で法然の弟子、住蓮房と安楽房が開いた念仏会に参加した後鳥羽上皇の女官姉妹が感激して尼僧に
なった事に激高された天皇は1207年法然を讃岐の国(四国)へ、親鸞を越後へ配流するなど、法然の有力な門弟もそれぞれ処罰されて専修念仏が全
面的に禁止されました。この騒ぎになるまでの三十年間(上人75歳)、ここ吉水を本拠として布教伝道をされておられました。
草庵は、法然上人が流罪のあと念仏停止となり、慈鎮和尚(慈円)が来られ、慈円山大乗院安養寺と号されることになりました。徳川時代に入り、慈
円山は「円山」と称される寺坊六ヶ寺と本坊を構える一大山寺となりましたが、明治となって坊舎は政府に没収され円山公園となりました。
鐘楼の下に建つ納骨堂
三門
知恩院の三門の南側が円山公園の北口になります。
正面には、長楽館が建ち喫茶室は、だれでも利用できます。
八坂神社の本殿の裏側(北側)に位置する紅枝垂れです。
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