①ローマ最初の成文法である12表法によって,貴族による法の独占が確立した。②リキニウス・セクスティウス法によって,執政官(コンスル)の一人は平民から 選ばれることになった。
③ホルテンシウス法によって,平民会の決議でも元老院の承認を得て国法と認められるようになった
④コンスタンティヌスは,学者に命じてローマ法大全を編纂させ,法律や法学者の学説を集大成した。
正解 2
古代地中海世界を統一した大帝国が,紀元前1世紀後半すなわち前27年,皇帝アウグストゥスのもとに誕生しました。その中心となったローマは,イタリア中部にラテン系の人々が建てた都市国家で,伝承によれば,その建設は前8世紀の中頃、ロムスルとレムスという双子の兄弟によるものとされています。
当初ローマは,イタリア北部に勢力を張っていた先住民であるエトルリア人の強い影響を受け,3代にわたってエトルリア人の王に支配されていたものと考えられています。ローマの歴史が明らかになってくるのは,前6世紀末(前509年)と伝えられる共和政の開始後のことです。
共和政となったローマでは,パトリキと呼ばれる貴族とプレブスと呼ばれる平民の身分差がおおきく,当初は,コンスルをはじめとする要職は貴族が独占していました。コンスルは共和制が始まったときに、それまでの国王が持っていた権限を2名で分け合うためにおかれた官職です。一人が戦争の指揮を時に内政の安定を図るためにもう一人を必要としていた面もあります。彼らが独裁者になることを防止するために、任期は1年としました。古代社会においても独裁者の出現を予防する方策がとられていました。ただし、非常事態が起きたときは、ディクタトル(独裁官)が任命されました。この官職は任期を半年とし、独裁化を防ごうとしました。
しかし,平民は,前494年の聖山事件をきっかけに、貴族の会議である元老院やコンスルの決定に対する拒否権をもった護民官職の設置に成功し,また,平民会の設置も貴族に認めさせました。さらに、前367年に制定されたリキニウス・セクスティウス法により2名のコンスルのうち1名は平民から選ばれる体制を実現した。また、貴族の占有地を500ユゲラ(現在の125haにあたる広さ)に制限しようとしました。
その80年後の前287年に制定されたホルテンシウス法では,平民会の決議が貴族をも拘束することが決まり、貴族と平民は政治的には同権となったといえます。ただし,それ以後も,貴族の政治的な重要性は長く維持され,オクタヴィアヌス帝も元老院の権威を尊重しています。