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総理各国事務衙門と清末の対外関係

2014年12月04日 | 高3用 授業内容をもう一度

【1861】年,清朝は【総理各国事務衙門】という役所を設立した。外国に関する事務を統一管理する役所という意味であるが,【総理衙門】とも略称された。【雍正帝】の時代に設置された【軍機処】の分局という形でつくられ,数名から10名前後の侍郎(中央行政官庁の次官)以上の官僚によって構成された。
主席には皇族である【恭親王】をあてて合議制をとったが、専任のものはなく、実質的な権限は限られていた。外国との交渉を担当する外務省のようなものになった。専任の外交官がいなかったことは,諸外国にとっては不満であった。この不満は義和団事件の後に締結された北京議定書(辛丑条約)によって解決された。つまり,総理衙門はこの条約によって1901年に廃止され,あらたに外交部が設立された。このような総理衙門や外交部などの外国との交渉を担当する役所は,清朝政府が進んで設立したものではなく,外国からの圧力によってつくられたのであった。
 そもそも総理衙門のような役所が設立されたことは,ある意味で,中国の伝統的世界観を根本的に揺るがすものであった。伝統的世界観では,世界を秩序づけるものは【華夷の別】であり,中華が世界の中心であるとした。中華以外の世界-夷狄との交渉は夷務と呼ばれ,あるべき関係は【朝貢関係】とされた。したがって周辺諸国との交渉は礼部(中央行政官庁の一つで,儀礼,祭典,学事,考試を司った)が管轄し,場合によっては地方の役所がおこない,また、2代目【ホンタイジ】のときから同盟関係にある地域とは【理藩院】という役所が事務を処理した。ところがこの新しい役所は中華と夷狄とを区別して対処するのではなく,対等な関係を認めるという立場にたったのである。
 このような役所はすでに述べたように,清朝が積極的に設立しようとしたものではなく,「各国の事情に通じ,外国人にごまかされないため」というのがその設立理由であった。直接の背景は【1856】年に起こった【アロー号事件】であった。【1840~42】年の【アヘン戦争】後も中国との貿易や外交関係に満足しなかったイギリスは,【広州】の珠江で偶然おこった香港籍のロルチア船(西洋型の中国船)のアロー号が清朝官憲に捕獲された事件を口実に,懸案の中国問題を一挙に解決しようとはかった。清朝は先のアヘン戦争で締結した条約を永久条約と考え,イギリスはこれ以上要求してこないだろうと思っていた。しかしイギリスはこの年に広西省で起こった【フランス人宣教師】の殺害事件を解決しようとしていたフランスに共同出兵をもちかけ,事件に因んでアロー戦争とも呼ばれる【第二次アヘン戦争】が勃発した。英仏連合軍は広東を占領したのち北上し,白河を遡って【天津】に進駐した。清朝は敗北を認め,【1858】年に【天津条約】を締結した。しかし翌1859年に批准書の交換をもとめて【北京】に赴こうとした英仏両国公使は,「国書親呈」問題で入京を拒否され,戦闘が再開された。【1860】年,英仏両国の遠征軍は【北京】へ進駐し,【カスティリオーネ】が設計した【円明園】を焼き討ちして宝物を掠奪した。熱河に避難していた【咸豊帝】にかわって戦争の終結をはかった恭親王は不平等条約締結の役割を負わされた。19世紀末の中国は,【日清戦争】の敗北によってその弱体ぶりが明らかになると,欧米に日本を加えた諸列強の利権争奪の舞台となった。利権の争奪は,【鉱山採掘権】や【鉄道敷設権】の獲得,【借款】の供与,【租借地】の獲得や勢力範囲の設定などの形で展開された。
【シベリア鉄道】の完成を間近にして南進の機会をねらっていた【ロシア】は,日本が【1895】年【下関条約】によって【遼東半島】を獲得すると,ロシアと同盟関係にあった【フランス】と中国分割への参入に野心を持つ【ドイツ】をさそって日本に干渉し,これを清に返還させた。【1895】年のこの出来事を【三国干渉】という。
ロシアはその代償として清から【東清鉄道】の敷設権を獲得し,その後,【遼東半島】南部の【旅順】と【大連】を租借した。ドイツは【山東半島】の【膠州湾】・【青島】を,フランスは【広州湾】を租借し,イギリスも【山東半島】の【威海衛】と香港島の対岸の【九竜半島】 (【新界】)を租借した。
【1861~65】年の【南北戦争】から国内問題に傾注し、中国分割におくれをとっていたアメリカは,【1898】年【米西戦争】の勝利によってアジア・太平洋地域にある【フィリピン】と【グアム島】を獲得し,中国市場への関心を高めていた。そのためアメリカは,【1899】年国務長官の【ジョン=ヘイ】の名で【門戸開放】・【機会均等】・【領土保全】の「【門戸開放宣言】」を提唱し,中国への進出に意欲を見せた。

19世紀末の中国は,【日清戦争】の敗北によってその弱体ぶりが明らかになると,欧米に日本を加えた諸列強の利権争奪の舞台となった。利権の争奪は,【鉱山採掘権】や【鉄道敷設権】の獲得,【借款】の供与,【租借地】の獲得や勢力範囲の設定などの形で展開された。
【シベリア鉄道】の完成を間近にして南進の機会をねらっていた【ロシア】は,日本が【1895】年【下関条約】によって【遼東半島】を獲得すると,ロシアと同盟関係にあった【フランス】と中国分割への参入に野心を持つ【ドイツ】をさそって日本に干渉し,これを清に返還させた。【1895】年のこの出来事を【三国干渉】という。
ロシアはその代償として清から【東清鉄道】の敷設権を獲得し,その後,【遼東半島】南部の【旅順】と【大連】を租借した。ドイツは【山東半島】の【膠州湾】・【青島】を,フランスは【広州湾】を租借し,イギリスも【山東半島】の【威海衛】と香港島の対岸の【九竜半島】 (【新界】)を租借した。
【1861~65】年の【南北戦争】から国内問題に傾注し、中国分割におくれをとっていたアメリカは,【1898】年【米西戦争】の勝利によってアジア・太平洋地域にある【フィリピン】と【グアム島】を獲得し,中国市場への関心を高めていた。そのためアメリカは,【1899】年国務長官の【ジョン=ヘイ】の名で【門戸開放】・【機会均等】・【領土保全】の「【門戸開放宣言】」を提唱し,中国への進出に意欲を見せた。


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