歴史と中国

成都市の西南交通大学で教鞭をとっていましたが、帰国。四川省(成都市)を中心に中国紹介記事及び日本歴史関係記事を載せます。

源義経は名将か?否〔改訂〕(その7)―歴史雑感〔20〕―

2015年11月10日 09時31分58秒 | 日本史(古代・中世)

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

 

七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

『玉葉』と『吾妻鏡』・『平家物語』での福原合戦を見てきました。以下では、両者を統合して、私なりの考えを述べたいと思います。

まず開戦前の源氏・平家両軍の配置を考えて見ます。

最初は、平家軍です。都落ちし、西国に逃れた平家が京の回復奪還を目途にしたことは言うまでもありません。西国で主として水軍により戦力を回復させ、瀬戸内海より摂津国に上陸して、京都をうかがえる場を確保しようとします。それが福原です。

だからこそ、東の生田森と西の一谷とに海から山際にかけて堀・逆茂木などの防御施設を構築し木戸口を設けたのです。いわば福原を中心に東西10km余りの地を城郭化したわけです。この城郭で源氏軍の攻撃を撃退しようと目論んだことになります。

当時の武士団の基本編成は一族単位であることは言うまでもありません。その一族が大きくなれば、その一族内部がさらに分割編成されます。この場合、惣領がその直轄部隊を率いるとともに一族全体を統括することになります。有力な兄弟がいれば彼らが一個の部隊を編成しますし、伯叔父たちも同様となります。また、子息も独立して一個の部隊を編成してゆきます。このように、惣領を中核に一族が編成されるのです。

清盛期には、当然清盛が惣領です。まず、彼の弟として、5男池大納言頼盛、4男門脇中納言教盛、3男修理大夫経盛が公卿に昇進し、それぞれが池殿家・門脇家・修理大夫家と家を形成します。同時に、長男の内大臣重盛が嫡男として小松家を形成します。重盛は父に先立ち死去しますが、小松家はその嫡子維盛に継承されます。また、清盛2男宗盛・3男知盛・4男重衡も公卿に昇進します。平家軍は、清盛直轄部隊(子息の知盛・重衡が指揮)、小松家および池殿家・門脇家・修理大夫家の弟3家、と大きく5部隊で編成されていたことになります。

清盛の死去と都落ちの後の編成は、池殿家が都落ちのときに平家を離脱していますのでこれを除き、基本的に世代交代を行い、宗盛を惣領に、旧清盛直轄(嫡宗)部隊を知盛・重衡が指揮し、叔父の門脇家が通盛兄弟、修理大夫家が経正兄弟、それに小松家が資盛兄弟(維盛は都落ちのとき、平家から脱落し、後に出家自殺)と、大きく4部隊に編成されていたと考えます。

以上の平家軍の編成を基礎にして、その配置を考えてみます。源平両軍の大手である生田森口は嫡系の知盛・重衡兄弟が守ります。同時に、丹波路へと三草山に小松家の資盛兄弟を派遣します。これは源氏軍が丹波経由で迂回することを知ってからだとあります。確かに義経軍防御の意味もあるでしょうが、より積極的に京都奪回の搦手としての丹波路を目指したものと解することもできましょう。これに、山の手口に嫡宗の侍大将の平盛俊(故清盛一の郎党盛国子)を配置します。一方、搦手の一谷口は薩摩守忠度です。以上が三草山合戦前の平家軍の配置です。ここでは主力の嫡宗を生田森に、これに次ぐ小松家を三草山に配置して、福原の搦手の一谷口には故清盛末弟の薩摩守忠度と少数の兵力しか配置していません。そして、門脇家と修理大夫家は予備兵力として福原に配置されたのでしょう。

しかし、三草山合戦で敗北し、その大半が瀬戸内海へと敗走します。これを知ると、山の手口を固めるため門脇家の通盛・教経兄弟を増援します。ここでは一谷ではなく山の手に増援したことに注意して下さい。このことは源氏搦手軍の主力が一谷ではなく山の手を攻撃すると平家は判断したからこその配置といえます。そして、修理大夫家の経正兄弟は依然として予備部隊として福原に控えていたと考えます。以上、合戦直前の配置は、生田森口が嫡宗(知盛・重衡)と主力最大兵力、山の手口が門脇家(通盛・教経兄弟)と次ぐ兵力、一谷口が故清盛末弟の忠度と最小の兵力、そして予備として福原に修理大夫家(経正兄弟)となります。

では、源氏軍の配置はどうでしょうか。源氏軍の目的は平家軍の再上洛の阻止です。このため、その策源地である福原を攻撃し、その覆滅が目標となります。このため、次のように部隊を配置します。生田森口攻撃は、源範頼を大将軍として、過半の兵を配します。これが主力の大手です。源義経と安田義定を大将軍に、丹波路より一谷方面に迂回攻撃をかける部隊を編成し、少数の兵を配します。これが搦手です。そして、三草山合戦勝利後、搦手を義経と義定に分け、義経は山の手口を義定は一谷口を攻撃することにします。

以上の配置から、源氏軍の戦術意図がわかります。それは、平家軍の主力が守備する生田森口を主力でもって攻撃し、ここで両軍が拘束されている間に、丹波路より迂回した部隊が後背より福原に突入することで、平家軍を撃破することです。この突入路としては、一谷口では福原から西に約8kmと遠いのに対して、山の手口ならその後背地となり、第一に山の手口を考えていたと思います。この作戦の成否は、主力の大手との連携が大切であることともに、平家軍の最小抵抗線を突くことが肝要です。前者に関しては、行程が長く山地であることを考えると、機動力が重要となります。そのため、大手に比べて、少数で機動力とんだ部隊が編成されたと考えます。同時に、現地の地理に通じた武士が参加していなければ迅速な行軍は困難でしょう。したがって、搦手には有力な摂津武士が参加していたと考えます。後者のためには、的確な平家軍の配置に関する情報が必要です。すなわち偵察活動が肝要となります。このためにも、やはり地理に通じた摂津武士の参加は欠かせないと考えます。また、行動の秘匿も不可欠と考えます。

他方、平家軍はどう考えていたのでしょう。生田森口に知盛・重衡兄弟を配置したことから、ここが平家軍にとっても主力ということになります。したがって、ここが最大抵抗線となります。同時に、源氏軍の丹波路迂回を知るや、三草山に小松家部隊を派遣配置したことは、ここを抵抗線として源氏搦手部隊を遅延させて、福原攻防戦に参加させないことで、最大抵抗戦線(生田森)で源氏軍の攻撃を撃退し、福原城郭を確保するという作戦目的を達成できることになります。

しかし、三草山の防衛線はもろくも崩れてしまいます。これを知った平家軍が門脇家を山の手口に増援し防衛線を構えたことは、源氏搦手部隊の進撃路が山の手口であると判断したことになります。決して一谷口ではないのです。なぜならば、平家軍の構成から考えますと、その兵力は最強が嫡宗(知盛・重衡)、第2が小松家、第3が門脇家、第4が修理大夫家となると考えるからです。一谷に配置された忠度は以上4家に比較すると少数で最下位の兵力なのです。したがって、福原合戦直前の平家軍の配置は、主力が生田森口、次いで山の手口、一谷口が最小ということになります。このことは三草山合戦後の源氏軍の行動を基本的には予測していたことになります。すなわち、『平家物語』にいう鵯越を平家軍は予測していたのです。源氏軍の秘匿性は失われていたのです。鵯越の進路は『平家物語』の記述とは異なり、未知のコースではなく既知のコースであったのです。したがって、『平家物語』の語る義経の主導による鵯越奇襲策は物語にすぎないのです。

(2015.12.10)


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